トリップムービー #244

 

つい先日。
満員の通勤電車でのことだ。
隣に立つ、スーツの若者のスマホの画面がたまたま目に入ってしまった。
まだ新卒くらいに見える若者が見ていたのは奇妙な動画だった。
ピンクや黄色の幾何学模様があちこちに動くだけ。
パソコンのスクリーンセーバーにありそうな模様や図形が動くだけの動画だ。
スーツの若者はその動画を見て、ニヤニヤと笑みを浮かべていた。
よく見ると、口からよだれまでたらしている。
恍惚、という言葉がぴったりの顔だった。
一体その動画の何がおもしろいのかわからないし、なにより、様子が変だった。
他の乗客は背中を向けていて、若者の異常さに気がついている人は私以外にはいなかった。

家に帰ってから、インターネットでさっきの若者が見ていた動画を探してみた。
理由はわからないけど、なぜか無性に気になった。
1時間くらいネットサーチしたものの見つからなかった。

翌日、驚いたことに、昨日とは別の女性が、同じ動画を見ているのを電車で目撃した。
やはり流行っているのだろうか。
その女性も恍惚としたような、しまりのない笑いを浮かべていた。

いよいよ動画の正体が気になった。
電車ではどうしても断片的にしか見れないので、一体あの動画の何がそれほど人を惹き付けるのか、
自分の目で確かめたかった。
知的好奇心・・・いや、本当にそうだろうか。
どうしてもあの動画を見なくてはいけない。
そう切迫した思いに囚われるのはなぜなのだろうか。

その翌日は、さらに人数が増えて同じ車両に4人いた。
一体その動画はなんなんだっ!
教えて欲しい。教えて欲しい。
渇いた欲求を感じた。
見せてくれ、頼むから!

ついに、ネットで動画を探し当てることができた。
トリップムービーというらしい。
見ているだけで脳を刺激して薬物を使用しているようなハイな気持ちになり、苦しみがなくなるのだという。
どういう仕掛けなのかはわからないが、確かに見ているうちに、
気持ちが安らぎ天国にいるかのような心地になっていく。
何時間でも見ていられる。
スマホにダウンロードして、持ち歩くことにした。

最近では、トリップムービーが欠かせなくなってきた。
仕事中も抜け出して、トイレでトリップムービーを見ている。
見ない日は無性にイライラする。

ネットニュースで、トリップムービーを見ていた男性が殺傷事件を起こしたという記事が話題になった。
・・・馬鹿なヤツだ。
節度を持って使えばトリップムービーは素晴らしいものなのに、こういう輩がいるから世間から誤解される。
世間の狭量さには吐き気がするが、折り合いをつけないとならない。
私はうまくやれる。

ある日、上長に呼び出され、トリップムービーについて問いただされた。
彼が言うには、トリップムービーのせいで私はおかしくなっているという。
周りの社員が不気味がっているので、ただちに見るのをやめて病院に行くよう命ぜられた。
・・・何もわかってない。
どいつもこいつも馬鹿ばかりだ。
トリップムービーは不毛な人生に光を与えてくれる魔法の薬のようなものに、
違法薬物かなんかだと勘違いしている。
自分達の狭い常識の殻を破る勇気がない無価値なやつら。
理解できない存在を認めないアホども。
・・・待てよ。
彼らは無知なだけなのだ。
教育の必要があるのではないか。
そうか・・・私は、トリップムービーの素晴らしさを布教する宣教師なのだ。
私はふいに自分が生まれた意味を理解した気がした。
幸いに、それができるポジションに私はいる。
国民的な音楽祭のステージバックに流れる動画の制作をまかされているのだ。

・・・明日、日本中は目覚めるだろう。
そして、世間は私に感謝するのだ。
さあ、歴史が変わる日の始まりだ。

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