これは僕が熱海のホテルで体験した怖い話。
数年前まで不動産業界で働いていた僕は、
ある時、熱海で行われる業界団体主催のセミナーに参加するため出張した。
宿泊場所は会社に用意してもらっていた。
宿泊施設が多い熱海の中でも、最大規模の客室数を誇るホテルだった。
ただ、バブル最盛期の頃の建物なので、外観はかなり古びて見えた。
チェックインしたのは19時過ぎ。
うだる夏真っ盛りだったのでスーツケースを持っての移動だけで、くたくただった。
明日のセミナーに備えて今日は早く休もうと部屋に入った。
タバコのヤニ臭さが部屋にこびりついていて、
壁紙はところどころ剥がれていた。
栄華を誇ったホテルもだいぶガタがきていた。
まるで有名スターがかつての栄光を忘れられず老いていっているようで、
なんだか物悲しい気持ちになった。
荷物を置いて、備えつけのドリップコーヒーを飲んで、一息ついた。
・・・なんだろう。
むずむずするようなこそばゆさを感じた。
説明が難しい居心地の悪さだ。
きっと疲れているんだろう。
そう思って、温泉に行くことにした。
熱海まで来たのだから温泉に入らないのはもったいない。
ホテル屋上の展望風呂がウリだと聞いていたので、さっそくいってみることにした。
なるほど。
熱海の夜景を眺めながら入る展望風呂は、開放感があって格別だった。
温泉から上がると、部屋で飲もうと自販機でビールを買って、部屋に戻った。
部屋に入った瞬間、
急に再び居心地の悪さを感じた。
なんだろう、この感覚。
考えてみた。
・・・そうだ。
親戚の家や、取引先に訪問した時に感じる感覚に近い気がした。
他人のテリトリーに侵入し、自分が異物に感じられる、そんな感覚。
仕事柄、出張が多い方だと思うけど、
今まで宿泊先でこんな感覚を覚えたことはなかった。
なぜなら、この異物感は、場所に起因するものではなく、人に起因するものだからだ。
人間は本能的に他人のテリトリーを感じ取れるのではないかと思う。
ということは、この部屋は、誰か別の人のテリトリーということなのだろうか。
その時、誰かに見られているような気がした。
もちろん部屋には誰もいない。
気のせいだろうか。
つとめて気にしないようにして、
テレビをつけビールを飲んだ。
けど、苦味ばかり感じてビールがおいしくない。
この部屋の不快感のせいだろう。
部屋をかえてもらおうか。
そう思って、内線電話に手を伸ばしかけた時、
ベッドの下に、何かを感じた。
不穏な空気がそこから流れてきているような気がした。
ベッドに身体を預けたまま、頭だけ下げてベッドの下をのぞきこんだ。
暗闇の中、何かがキラリと光った。
手を伸ばす。
それは、女性用の手鏡だった。
以前宿泊した人の忘れ物だろうか。
鏡の中をのぞいてみた。
思わず声を上げて、鏡を取り落とした。
・・・一瞬、自分の背後に背中を向けた見知らぬ女性が写ったような気がした。
振り返っても、もちろんそんな女性はいなかった。
フロントに手鏡を持っていって、
部屋をかえて欲しいと申し出た。
対応したベテランらしい50代くらいの男性スタッフは、
手鏡を見るなり、顔をしかめた。
「お客様、こちらの手鏡をどちらで?」
「ベッドの下です」
そう伝えると、男性スタッフは、うかがうように言った。
「・・・何かご覧になりましたか?」
「・・・いえ、何も」
なぜだろう。
手鏡の中に、背中を向けた女性を見た気がするとは言えなかった。
どうせ信じてもらえないだろうとタカをくくって、
正気を疑われたくないという気持ちが働いたのかもしれない。
「そうですか・・・なら、よかったです。@m&!#f」
男性スタッフは何かゴニョゴニョと言っていたが、最後は聞き取れなかった。
新しい部屋の鍵をもらい、エレベーターに乗り込んだ。
荷物を動かさなくてはいけないけど、不気味な部屋で寝るよりはマシだ。
・・・それにしても。
男性スタッフは、最後に何と言っていたのだろう。
妙に気になった。
口の動きを思い出して考えてみるが、パッと言葉には結びつかない。
その時、エレベーターの金属製ドアが鏡のように反射して、
エレベーター内部が写っているのに気がついた。
・・・目を疑った。
他に誰も乗っていないはずなのに、反射して写ったエレベーターの中に、
背を向けた女性が立っていた。
手鏡の中に写り込んでいた同じ女性だった。
ふいに、男性スタッフがつぶやいていた言葉がわかった。
「・・・見ると、鏡から出てきちゃうみたいなんですよね」
#350