「私がどれだけタカシを愛しているかわかっているの!」
金切り声をあげて彼女はいった。
「・・・うん」
私はそう言うしかない。
彼女の手には包丁が握られている。
玄関に続く廊下を塞ぐように立っているので逃げられない。
へたに動けば刺される。
彼女の目がそう告げていた。
「じゃあ、どうして別れるなんていうの」
「それは・・・ちょっと・・・」
「はっきりいいなさいよ」
「いや・・・」
私の歯切れの悪さに彼女が苛立ち始めている。
どう答えればいい?
どう答えれば彼女は納得する?
私は頭を回転させた。
答えを間違えれば彼女が自分自身を傷つける可能性もある。それはそれで困る。
この局面を乗り切る言葉を必死に記憶から探すが、何も出てこない。ヒントなどどこにもない。
出るのは冷汗だけだった。
「言いたくないってわけ?」
「そういうわけじゃ・・・」
「言えないのね」
彼女の目が据わり、包丁を握る手が動く。
「違うから!落ち着こう、とりあえず」
「私は落ち着いてるわよ!」
彼女が包丁を持った腕を勢いよく右に振り壁に穴が空いた。
このままでは殺される・・・。
冷汗が脂汗にかわった。
彼女に気づかれないよう、リビングのテーブルに視線を送る。
テーブルの上にスマホが置いてあるが、彼女の目を盗んでスマホを手に取り110番するまで10秒はかかる。
何度、シュミレーションしても、通報する前に刺される気がする。
でも、彼女の精神はどんどん不安定になってきている。もうこの手に賭けるしかない。
私は、彼女の注意が一瞬逸れた隙に、テーブルの上のスマホに勢いよく手を伸ばした。
「なにやってるのよ!タカシ」
しまった、気づかれた。
彼女が包丁を手に私の方に向かってきている。
万事休すだ。
私はパニックの中、奇跡を祈って彼女の理性に呼びかける。
「私はタカシじゃありません!私は・・・」
しかし、続く言葉は口から出てこなかった。
お腹が焼けるように熱い。
朦朧とする意識で彼女の顔を見て私は思う。
(・・・この女、誰なんだ?タカシって誰なんだ・・・)
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