これはXさん一家が熱海温泉に旅行にいった時の怖い話。
Xさんは奥さんと5歳の息子の3人家族。
夏休みを利用して熱海温泉に旅行にきていた。
Xさん一家は、日中、熱海サンビーチで海遊びをしてから宿泊する宿に向かった。
泊まる宿は熱海の傾斜を利用して建てられた日本家屋の宿で30室ほどの部屋がある。
源泉掛け流しの露天風呂が売りの宿だった。
部屋は15畳ほどの広さの和室。
Xさんの息子は物心ついてから今回が初めての泊まりでの旅行だったので、おおはしゃぎで部屋を駆けまわった。
Xさんと奥さんがお茶菓子を食べて人心地ついていると、Xさんの息子がはしゃぐ声がぴたっと止まった。
不思議に思って見にいくと、Xさんの息子は、部屋の角にあるでっぱった部分に壁を向いて立っていた。
部屋は長方形なのだが、一箇所だけ尻尾が生えたようにでっぱった構造になっていた。
でっぱりは奥に進んで90°直角に曲がる。
はじめはもう一部屋あるのかと思ったが奥は行き止まりになっていて、最奥の壁に大きな鏡が設置されていた。
Xさんの息子はその鏡をじっと見つめていた。
「どうかした?」
Xさんが声をかけると、「ううん」と首を振って、息子はまた部屋を駆け回り始めた。
Xさんは鏡を見つめた。
何の変哲もない鏡だったが、まるで鏡を置くために作られたようなでっぱりだったので特別なものなのかもしれないと思った。
その夜。
Xさんは物音に目を覚ました。
隣の布団で奥さんと一緒に寝ていたはずの息子の姿がない。
トイレかなと思ったが、例のでっぱりで人が動くのが見えて、「あれ?」とXさんは思った。
見にいくと、息子が真っ暗の中、鏡に向かってジッと立っていた。
「どうした?」と尋ねてみるが反応がない。
憑かれたように鏡をジッと見つめている。
強めに息子の名前を呼んで肩を揺さぶると、ハッとしたように息子の目がXさんの顔を捉えた。
息子はなぜ自分が鏡の前に立っているのか、覚えていなかった。
寝ぼけたのだろうか。
初めてのことだったので、Xさんは内心戸惑ったが、息子を寝かしつけてまた眠りについた。
しばらくして、また目が覚めた。
見ると、再び息子の姿が布団になかった。
角のでっぱりを見にいくと、今度は人影が二つあった。
息子と奥さんだった。
二人は鏡の前に並んで立って、じっと鏡の奥を見つめている。
呼びかけると二人とも夢から醒めたようにハッと我に返った。
息子だけならまだしも奥さんまで……。
一体何が起きているのか。
この鏡には何かあるのか。
わけがわからなかった。
Xさんは鏡を調べてみたが、何も変わったところはなかった。
「…お客様?お客様!」
呼びかける声にXさんはハッと我に帰った。
Xさんは鏡の前に立っていて、制服を着た係の人が困惑した顔でXさんの肩を揺さぶっていた。
「もう11:30になりますが……」
気がつくと朝になっていた。
隣には状況を飲み込めていない息子さんと奥さんの姿もあった。
3人ともなぜか鏡の前にじっと立っていた。
とっくにチェッアウト時間を過ぎているのに一家が部屋から出てこないので心配になって係の人が確認にきたらしい。
いまだボーッとする頭でXさんは鏡を見つめた。
一見何の変哲もない姿見だ。
だが人を惹きつけ惑わせる魔性の何かがあるのか……。
帰り際、係の人に尋ねてみたが、Xさん一家のように、まるで鏡に取り憑かれたような現象に見舞われた人は初めてで、宿泊した部屋にも鏡にも何のいわくもないという。
後でXさん自らネットでいくら調べてみても、何の怪談も情報もヒットしなかった。
案外、知られていない場所にこそ、本物の恐怖はあるのかもしれない……。
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