有馬温泉の怖い話
兵庫県神戸市にある有馬温泉は、草津温泉、下呂温泉と合わせて日本三名泉と呼ばれ、日本を代表する温泉地の一つである。
有馬温泉を象徴する褐色のお湯は鉄を含んだ塩化物泉で「金泉」と呼ばれている。
有馬温泉の歴史は古く、奈良時代にはすでに温泉が利用されていたとされ、織田信長や豊臣秀吉など多くの歴史上の人物が訪れたと言われている。
これは、そんな有馬温泉で20代の会社員・A子さんが体験した怖い話。
A子さんは、仲のいい会社の同僚のBさんと女子2人でドライブ旅行に出かけた。
日中、六甲山を観光し、午後から有馬温泉の旅館で温泉にゆっくりつかる予定だった。
六甲山から有馬温泉に向かって山道を車で走っていると、ふいに目の前の道路に人影が現れた。
車を運転していたBさんは慌ててブレーキをかけて減速して路肩に駐車した。
窓を開けて見てみると、おばあさんがうずくまっている。
「・・・助けて」
消え入りそうな、か細い声が聞こえた。
どうしてこんな山道におばあさんが一人でいるのかと思ったけど、急病などであれば大変だ。
急いで車を降りようとするA子さんだったが、Bさんが腕をとって止めた。
「ダメ、行こう」
A子さんは耳を疑った。
この状況でおばあさんを見捨てるというのか。
Bさんがなぜそんなことを言うのか、わけがわからなかった。
A子さんは腕を振り払おうとしたが、Bさんの力は思いのほか強くて離れない。
「・・・助けて、お願い」
またも、か細く弱々しい声がした。
それなのに、Bさんは、シフトレバーをドライブに入れ急発進しておばあさんを避けて車を走らせた。
A子さんは、理解できず、Bさんに詰め寄った。
「見捨てる気?何かあったらどうするの!戻ろうよ」
「アレはダメ。いいから早く離れよう」
Bさんはチラチラとバックミラーでおばあさんを確認している。
その時、A子さんは思い出した。
昔、Bさんがチラッと言っていたことを。
『私、ちょっと霊感あるんだよね』
「・・・もしかして、何か見えたの?」
A子さんは恐る恐る聞いてみた。
「見えたっていうか、よくないモノなのはわかった。ああやって足を止めさせて悪さするヤツだと思う」
「悪さって、、、」
「わからないけど、取り憑くとか、、、?」
こんな日中にあんな堂々とこの世ならざるモノが跋扈しているというのか。
Bさんが口からでまかせをいっていて、本物の急病人をスルーしてしまった可能性も頭をよぎったが、A子さんはBさんを信じることにした。
「気にしちゃダメ。罪悪感を感じさせるのが、ああいうのの手口なんだから」
「・・・うん」
有馬温泉に到着しても、まだ完全に気持ちが晴れたわけではなかったが、せっかくの旅行なのだから楽しくしないとと思ってA子さんは気持ちを切り替えてテンションをあげた。それはBさんも一緒のようだった。
A子さんとBさんは駐車場から宿に向かう道中で雑貨店や軽食屋に立ち寄り、有馬温泉名物の炭酸せんべえを食べたり、おみやげを買ったりした。
ところが、ようやく気持ちも持ち直してきて気分良く温泉街を散策していると、裏路地から男の子の泣き声が聞こえてきた。
道で転んだのだろうか。手で顔を覆って大きな声でなきじゃくっている。A子さんが様子を見に行こうとすると、Bさんが険しい顔でまたもA子さんを止めた。
「もしかして、また?」
「・・・A子ちゃんなら、足を止めると思われてついてきたのかも。関わったらダメ。家に帰るまでは誰かが助けを求めてきても手を貸したり答えたりしたら絶対ダメだよ」
Bさんに強く念を押され、A子さんは「うん」というしかなかった。
2人が宿泊する宿は昔の風情を残した趣深い旅館だったが、観光気分に水を差すような怖い出来事のせいでA子さんは気分が沈んでいた。
「・・・せっかくだから大浴場の温泉いく?」
そんなA子さんを見かけてBさんがそう声をかけてきた。
「そうだね」
有馬温泉の茶褐色の金泉につかっていると身も心も芯まで温まるようだった。
「・・・なんか、ごめん。せっかくの旅行なのに」
BさんはA子さんに謝ってきた。
「なんで謝るの」
「いや、もしかしたら、私の思い違いでなんでもないことだったかもしれないし。水差しちゃったなと思って」
「Bさんのせいじゃない。むしろ、悪いことが起きないように助けてくれたと思ってる」
「なら、よかった、、、ちょっとホッとした。視えてよかったことなんて一度もなかったから」
ひょっとすると、Bさんはその力のせいで色々な苦労をしてきたのかもしれないとA子さんは思った。
温泉を出ると、A子さんとBさんは湯冷ましもかねて旅館の近所のコンビニに買い出しに出かけることにした。
外はもうすっかり暗くなっていて、源泉から湧く煙越しに、旅館やホテルの明かりが映えて見えた。
コンビニで買い物をすませ旅館に戻っていると、40代くらいの男の人が2人に近づいてきた。
「ちょっと手を貸していただけませんか?」
やぶから棒に男の人は言った。
しかも顔にニヤニヤと笑みを浮かべながら。
A子さんは身がすくんだ。
もしかしたら、また、、、?
見ると、Bさんは明らかに顔を強張らせていた。
「ね、いいでしょ。手を貸してくださいよ」
男の人は言いながら、ゆらりゆらりと距離を縮めてくる。
言動も様子も普通じゃない。
でも、A子さんは、その場で金縛りにあったように動けなくなってしまった。
すると、Bさんが、A子さんの手を取り引っ張って走り出した。
走りながら後ろを振り返ると、男の人は2人を追ってきていた。
「なんで逃げるんですか。待ってくださいよ〜」
軽い口調と裏腹に男の人の目つきは2人を鋭く睨みつけている。
旅館までは数百メートル。
息を切らせながらA子さんとBさんは走った。
このペースなら追いつかれそうにはない。
安心しかけた時、Bさんが足をくじいて転んでしまった。
Bさんはすぐに起き上がれたものの、ひどく痛めたらしく足を引きずっている。
振り返ると、男の人はまだ向かってきている。
「A子さん、先に行って」
「でも、、、1人じゃ先には帰れない」
「じゃあ、肩貸してくれる?」
「うん」
Bさんに肩を貸そうとした時、A子さんの背中にドサッと何かが覆い被さるように乗ってきた。
えっ?
A子さんの両肩からBさんの腕が伸びている。
どうやらBさんがA子さんの背中におぶさってきたらしい。
わけがわからずA子さんが振り返ると同時に、BさんがA子さんの肩に伏せていた顔を上げた。
A子さんは悲鳴をあげそうになった。
Bさんの顔が山で会ったおばあさんの顔に変わっていた。
『家に帰るまでは誰かが助けを求めてきても手を貸したり答えたりしたら絶対ダメだよ』
Bさんの言葉がぐるぐると頭の中でリフレインした。
「やっっと、助けてくれたねぇぇ」
おばあさんの言葉がA子さんの脳をぐらぐらと揺らした。
・・・気がつくと、BさんがA子さんの名前を呼びながら身体をゆすっていた。
A子さんは旅館近くの路地で意識を失っていたらしい。
A子さんの無事を確認してホッとしたBさんから、A子さんがしばらく行方不明になっていたのだと教えられた。
旅館の温泉から出て、メイク直しをしていると、A子さんは1人でフラリと出ていってしまったのだという。
A子さんは、とっくに、何かに憑かれてしまっていたのかもしれない。
有馬温泉から帰ると、すぐにBさんの知り合いのお寺さんでお祓いを受け、その後、A子さんに何か不吉なことがあったりはなかったという。
もし、道端で誰かが助けを求めていても、まずは、その人が本当に生きた人間なのか確認した方がいいのかもしれない。
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