箱根旧街道の怖い話
箱根旧街道は江戸時代の箱根越えの道。
通称「箱根ハ里」とも呼ばれている。
箱根湯本駅から畑宿、芦ノ湖を経て三島まで続いていて、当時の面影を残す石畳の道は人気のハイキングコースとなっている。
Nさんは、神奈川県在住の60代男性。
仕事を引退してからは気ままに過ごしていたが、ある年、なんとなく思いついて箱根旧街道を歩いてみようと思った。
旧街道は急な坂道が多かったが、杉並木に囲まれた石畳の道は、山の新鮮な空気に満たされていて、静謐な雰囲気だった。
箱根の穴場スポットなので、すれ違う人も数人程度で、ほとんど人もおらず、黙々と山道を登るだけで、日々の雑念を忘れることができた。
順調に登っていたが甘酒茶屋を超えたあたりで、急に辺りにモヤがかかってきた。
霧が出てきたのだ。
だんだんと霧は濃くなっていき、あっという間に、二歩先も見えないほどに視界が真っ白になった。
石畳は苔むしていて滑りやすいので、Nさんは、霧が晴れるまで動かず休むことにした。
不思議なことにさっきまで遠くに聞こえていた車の音がなくなり、ピンと張り詰めた静寂に辺りは包まれた。
ふいに、ブルッと身体に寒気が走った。
霧が出て急に気温が下がってきた。
白い霧の中にポツンと一人でいると、とても孤独だった。
まるで大海原を一人で漂っているかのようだった。
その時、ふいに、坂の下の方から音が聞こえた。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ
こんな霧の中、登ってくる人がいるらしい。
危ないなと思ったが、人がいるという安心感に勝るものはなかった。
ザッ、ザッ、ザッ
音はどんどん近づいてくる。
と、急に音が変わった。
ザザザザザザザザザ・・・。
一人ではなく複数の足音が重なって連続して聞こえた。
しかも一人二人ではない。結構な団体さんだ。
視界不良の中、足音だけ聞こえてくるというのは気味が悪かったが、合流したら後ろについていこうかとNさんは考えた。
一人孤独に待つより、足元が危なくても人と一緒にいたい気持ちだった。
足音は、もう目と鼻の先まで来ている。
ようやく人の足が見えてきたが、霧が濃いせいで、見えたのは膝から下の足だけだった。
Nさんが休む前を、ザッザッと足が登っていく。
1人、2人、3人・・・続々と進行が続き、10人を超えても終わらない・・・。
さすがにおかしいとNさんは思い始めた。
こんな霧の中、さっきまで人っ子ひとりいなかった旧街道に、大名行列のような集団が通るなんてことがあるのだろうか。
違和感を覚え、注意して見てみると、Nさんは、あることに気がついた。
前を通る人たちの格好がおかしい。
足袋に草履を履いていて、脛には脚絆をつけている。
まるで江戸時代の旅装のようだ。
Nさんの背筋を冷たい汗がつたった。
彼らは何者なのか・・・。
よく考えたら足取りもおかしい。
こんな濃い霧の中、なんの迷いもなくズンズン前に進めるわけがない。
ふいに、行列が途切れた。
数えるのはすでにやめていたが、ゆうに20名以上は通過していった気がする。
奇妙なことに行列が終わった瞬間、霧が晴れてきた。
すぐに杉並木と石畳がくっきり見えるようになり、Nさんは行列が向かった山の上に視線を向けたが、誰一人として姿が見えなかった。
まるで霧とともに消えてしまったかのように・・・。
いったい今の行列はなんだったのか・・・。
時計を確認して、Nさんは唖然とした。
霧が出ていたのは、体感では15分くらいだったが、時計の時刻では、数時間も時間が飛んでいた。
いつの間にか日も傾き始めている。
わけがわからなかった。
Nさんがしばし放心していると、また霧が濃くなり始めた。
1分もしないうちに再び視界が白に染まった。
Nさんが動けずにいると、再び"あの音"が聞こえ始めた。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ
今度は山の上から足音が下ってくる。
音はずんずん近づいてくる。
Nさんの背筋を冷たい汗がつたった。
霧のせいではない。
紛れもない恐怖だった。
Nさんは、行列が来る前に、霧の中を下りはじめた。
追いつかれたらいけないと思った。
霧のせいで1m先の足元も見えない。
それでも、転がるように坂道をくだっていく。
いつ足を滑らせてもおかしくなかった。
けど、後ろの足音は一向に離れていかない。
むしろ足音のスピードが増している気がする。
一定の距離を保ってピッタリとくっついてきているようだった。
ふいに目の前の石畳が途切れ、アスファルトになった。
旧街道と県道がぶつかる場所に出たのだ。
いきなり、強烈な光がNさんの目に飛び込んできた。
ヘッドライトの光だ。
車が猛スピードでNさん目掛けて走り込んできていた。
轢かれる!と思って目を閉じた。
激しいブレーキ音。
目を開くと、目の前に車のフロント部分があった。
あんなに濃かった霧が、一瞬のうちに晴れていた。
ドライバーが窓から顔を出し怒鳴っていたが耳に入ってこない。
Nさんは、ハッと後ろを振り返った。
足音の主の姿はなく、夕闇に沈み始めた旧街道の入り口が見えるだけだったが、石畳の奥の闇から何かに見つめられているような気がしたという。
Nさんは、この世でないところに連れて行かれそうになっていたのかもしれない。ひと気のない旧街道には注意が必要だ。
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