伊豆の温泉宿の怖い話

これは会社員のSさんが、奥伊豆の温泉宿で体験した怖い話です。

その温泉宿は、伊豆の山深い場所にありました。
宿までの道は車一台分の細道しかなく、知る人ぞ知る温泉宿という触れ込みでした。
宿の売りはなんといっても温泉で、すべての客室に源泉掛け流しの半露店風呂がついており、泉質がよいことで有名でした。
Sさんも、そんな噂を聞きつけ、1泊2日の旅行で奥さんと2人でその宿を訪れたのです。

温泉宿は本館と別館の2棟が並ぶように建っていて、秘湯という言葉がぴったりの山深くにありました。
Sさんが泊まる部屋は別館の3階の角部屋でした。
部屋に荷物を置くと、さっそく名物の客室つきの半露天風呂を見にいきました。
お風呂のドアを開けた瞬間、檜の香りがフワッと漂ってきて、客室つきとは思えない広さのお風呂がありました。
Sさんと奥さんは思わず2人して感嘆のため息をもらしました。

夕食までまだ時間があったので、さっそく2人はお風呂に入ることにしました。
まずは奥さんから先に入って、Sさんはテレビを見ながら待っていました。
すると、10分もしないうちにタオルを巻いた奥さんがお風呂から上がってきました。
あまりにも早いのでSさんは驚いて理由を尋ねました。
「なんか見られている気がするの」
「え?」
視線を感じる、というのです。
Sさんは奥さんに連れられてお風呂を見にいきました。
お風呂は外に面してガラス貼りになっているのですが、目隠しとして曇りガラスの柵と植木が配されていて周りからは見えないようになっていました。
Sさんは柵の上から顔を出して、周りを見回してみましたが、隣接する本館の壁と雑木林が見えるだけで、覗いている人の姿はありませんでした。
「誰もいないよ」
「でも、お風呂に入っていると、視線を感じるのよ」
「気のせいだと思うけど、、、じゃあ、交代しよう。男が入っていたらさすがにいなくなるだろ」
そうして、今度はSさんがお風呂に入りました。
湯船につかると、源泉のほのかな香りと檜の香りが混ざり合って、とても心地良い香りがしました。
家のお風呂とは段違いだなとSさんが感じていると、ふいに首筋にチクチクとする感覚がありました。誰かがこっちを見ている、そんな感覚です。
奥さんの言う通りでした。
普段、これほど開放的なお風呂に入ることがないので、そんな錯覚をするんだろうとSさんは考えました。
気にしないようにして湯船につかり続けましたが、どうにも首筋の違和感は消えません。
むしろ、強まっている気がしました。
Sさんは、たまらず湯船から出て腰にタオルを巻き、視線がどこから向けられているのか探ろうとしました。
そして、見つけたのです。
隣接する本館の最上階の隅の方に、1つだけ小さな窓がありました。
視線の出所はあの窓だと気づきました。
Sさんはじっとよく目を凝らして窓をみてみました。
すると、ふいに窓の向こうに男性の顔があらわれました。
中年の男性で、目を見開き、まっすぐSさんが入っている温泉を見下ろしています。
やはり覗かれていたんだ、、、
ゾワゾワとした気持ち悪さを感じました。
Sさんは慌ててお風呂から出て、部屋の内線電話を取りました。
電話がフロントにつながるやいなや、Sさんは本館の最上階からお風呂を覗いている男がいることをまくしたてました。
フロントの担当の人は、「申し訳ありません!すぐに確認いたします」と言って一度電話を切りました。
受話器を置くと、キョトンとした表情で奥さんがSさんを見ていたので、本当に覗かれていたのだと説明しました。
「やっぱり」と憤慨した奥さんと2人でお風呂に戻りましたが、本館の最上階から覗いていた男性は顔をあらわしませんでした。

しばらくして、宿の人が平身低頭して部屋に来ました。
どこから覗かれていたか教えて欲しいというので、本館、最上階の端にある小窓を指差すと、宿の人はギョッとしたように固まりました。
「・・・あの部屋から?間違いございませんか」
「ええ。中年の男のひとでした。間違いありません」
「ですが、あの部屋から覗くのは難しいので、もしかしたらお客様の見間違いということはございませんでしょうか」
「はぁ?」
Sさんは、自分の目を疑われたのが信じられなくて、腹を立てて宿の人に詰め寄りました。
「たしかに見たんだ!お客を信じないのか?」
「・・・ですが、お客様、あの窓から覗くのは無理なんでございます。あの部屋は倉庫でして、実際に見ていただければ覗くのは無理だとご理解いただけるかと・・・」
腹の虫がおさまらないSさんと奥さんは宿の人の案内で本館最上階に実際に行ってみることにしました。
本館最上階は、客室がある階とは雰囲気がだいぶ違っていました。
廊下は、ほこりっぽく薄暗い感じがして家具や調度品が雑然と置かれていました。
「最上階は、普段つかってなくて物置きになってるんでございます」
何も聞いていないのに、宿の人が言い繕うように言いました。
問題の倉庫は廊下の一番奥にありました。
ドアを開けるとギィときしんだ音が鳴り、部屋の中から埃が舞ってきて普段使われていないのが一目瞭然でした。
部屋は真っ暗で一見、窓などなさそうだった。
明かりをつけてもらっても、棚がグルッと壁を囲んでいて窓は見えませんでした。
そもそもモノが雑然と置かれていて足の踏み場がほとんどありませんでした。
宿の人が奥の棚を指差し、
「窓はあの棚の奥にございます。いかがですか?覗くのは難しいとおわかりいただけたでしょうか」
Sさんは返す言葉がありませんでした。
自分が見た、あの男は見間違いだというのでしょうか。
目や鼻の顔形まではっきり見えたのに、そんなことがあるでしょうか。
Sさんと奥さんは一通り倉庫内を見た後、「わかりました。大丈夫です」と踵を返しました。
その瞬間、背中にゾワゾワとした感覚が走りました。
ヒトの視線・・・。
ジッと誰かに見られている。明らかにそう感じました。
しかし、倉庫内に人がいるはずがないのは、つい先程自分自身の目で確かています。
そこにいるはずがない人物に見られている、、、
その事実にSさんは戦慄を覚え、人目もはばからず叫び出しそうになるのを必死にこらえて、倉庫を飛び出しました。
倉庫を出ると、奥さんがSさんに目配せして小声で言いました。
「いたよね?」
奥さんもSさんと同じ視線を感じていたらしいのです。
「うん、いた・・・」
Sさんは同意しました。
あの倉庫には、この世のものではないモノが巣食っている。Sさん夫婦はそう確信したのでした。

その後、宿の人の提案で部屋を替えてもらうことになりました。
部屋が替わると、もう視線は感じなかったそうです。
そんな恐怖体験を除けば、温泉もご飯も最高で、いい旅行だったとSさんは思いました。

この話には後日談があります。
Sさんは数年後、旧友の誘いで同じ温泉宿を訪れることになったのですが、
久しぶりに訪れると、宿は様変わりしていて、別館が本館となり、新たに別の新館が建てられていました。
以前の本館があった場所は、建屋がなくなり庭園になっていたそうです。
昔の滞在を思い返しながら、Sさんが庭園を散策していると、人目がつきづらい目立たない場所にまだ新しい石碑があるのに気がつきました。
石碑には、『慰霊碑』と彫り込まれていたと言います。
他には何の記述もなく、何の慰霊なのかはわからなかったそうです。
慰霊碑を見て、本館があった場所で、かつて何かがあったのだとSさんは思いました。
数年前、この宿で感じた視線の主だったのかもしれません。
本館の建屋が庭園に作りかえられてしまったのは、ここ数年で、良からぬ出来事が起きたからではないか、確証はありませんでしたが、Sさんはそんな気がして、当事者にならずによかったと身震いしたといいます。

#523

-ホテル・旅館の怖い話, 怖い話