【怖い話】マザー
ルーを溶かしいれるとキッチンにシチューのいい香りが立った。
数えきれないほど繰り返し作ったメニュー。
緑川千草は今年で59歳になった。
スーパーのレジ係としてパートで働きながら、息子と二人で暮らしている。
腰痛はあるが、それ以外はまだまだ健康そのものだ。
夫とは早くに離婚した。
もう理由も覚えていない。
彼女にとって、それくらい遠い過去の出来事となっている。
千草の実家は地元の大地主だった。
だから、パート暮らしでも、土地を売ったり貸したりして、これまでなんとかやってこられた。
今住んでいる一軒家も両親から千草が相続した物件だった。
千草は、シチューを器に入れ、ご飯とサラダと一緒にトレーに載せた。
トレーを持って、薄暗い廊下を運んでいく。
古い家なので、木の板が足を動かすたびギシギシと鳴る。
1階の奥の一室、閉め切られたドアの前に千草はトレーを置く。
「剛。お夕飯置いておくからね」
千草の1人息子の剛はかれこれ20年以上、引き込もり生活を続けていた。
千草はトレーを置くと廊下に座り込み、扉の向こうに語りかける。
「紫陽花がね、公園に咲いたらしいわよ。よかったら、今度見に行かない?夜だったら、人も少ないと思うし・・・」
もうずっと息子の声すら聞いていない。
ご飯を置いておけば明日の朝には空になっているので、それが生存確認になっている。
「たまには、身体を動かすのもいいと思うから、考えておいてね」
千草は、ポケットから折りたたまれた1枚のチラシを取り出す。
迷いながら、トレーの横に添える。
引きこもりの自立支援をしている団体のチラシだった。
その夜、千草は、何かの気配に目を覚ました。
ズルリズルリと何かが這うような音。
「・・・剛?」
部屋から剛が出てきたのかと、ハッと起き上がる。
布団を抜け、廊下に出ると、何かに足を滑らせ千草はしりもちをついた。
泥水のようなヌメリのある黒い液体が廊下に広がっていた。
「・・・なにこれ」
点々と液体が続く先は剛の部屋だった。
空になった夕飯のトレーが部屋の前に置かれ、自立支援団体のチラシはビリビリに破られていた。
「・・・剛。起きてるの?」
顔色をうかがうような声音で話しかける千草。
しかし、いくら待っても返事はなかった。
翌朝。
ゴミ出しをしようと玄関に向かった千草は、玄関のタイルに泥土が付着しているのに気がついた。
剛が夜中に1人で出かけたのかと驚きと嬉しさを感じた。
普通の親なら眉をひそめるかもしれないが、部屋から一歩も出ない息子を持つ親としては感涙の出来事だった。
しかし、玄関を出た瞬間、千草は言葉を失った。
玄関の前に、子供用の靴が投げ捨てられていた。
ただそれだけのことなのだが、強烈な不安が胸を貫いた。
その時、家の中から女の子の声のが聞こえた気がした。
慌てて家に戻った千草は、剛の部屋のドアを激しく叩く。
「剛。ねえ、誰か一緒にいるの?剛」
しかし、一向に返事はない。
諦めてリビングに戻ると、千草の目に衝撃的なニュースが飛び込んできた。
昨夜、紫陽花公園で犬の散歩をしていた小学5年生の女の子・平井彩香ちゃん(10)が忽然と消え、行方不明になっているというニュースだった。
扉の向こうの剛に再度呼びかける。
「剛。誰か一緒にいるの?お願い答えて!」
ドアノブを何度も回すが、剛は沈黙を保ったままだった。
リビングのニュースを見ながら、自分でも気づかないうちに指の爪を噛んでいた。
泣きながら娘の心配する両親のインタビューが繰り返し放送されている。
千草は煩悶した。
親として通報すべきか、だが、それをしてしまったら親子の断絶は確定的なものになるだろう。
自分の勘違いかもしれない。勘違いだとしたら、疑われた剛をひどく傷つけてしまうに違いない。
何度繰り返し考えても答えが出ない。
答えを見い出せないまま、気づけば震える手で受話器を取り電話をかけていた。
「はい、警察です・・・」
千草は、男性の通信係の声をきくや反射的に電話を切ってしまった。
決めつけるのはよくない、せめて連絡は明日にしよう。
問題と向き合わない現実逃避だとわかっていても、今の千草にはそれしかできなかった。
その夜、2食分の夕飯を剛の部屋の前に置いておくと、翌朝には2食ともきれいに平らげられていた。
空になったトレーを見て、千草は警察に相談する気力を失った。
千草は、玄関前に落ちていた子供の靴をビニールに入れて靴箱の奥に隠した。
自分がしていることは証拠隠滅にあたるかもしれないという自覚はあったが、息子を守らなければという気持ちが勝った。
翌日。上の空で仕事が手につかず千草はミスを連発した。休憩中、同僚の横山夏江が心配して声をかけてきた。
「緑川さん、どうしたの?」
「・・・ちょっと、ね」
「何か悩みがあるなら聞くけど・・・」
「・・・もしも、よ。自分の子供が、道を踏み外してるのに気づいてしまったら、どうする?」
「それは、説得するわよ。余計悪くならないように」
「たとえ、それで子供との関係が壊れるとしても?」
「そりゃそうよ。それが母親ってものでしょう?」
「・・・」
千草が仕事から自転車で帰ると、スーツの男が千草の家を眺めていた。
男は、千草に気がつくと、優しく微笑みかけた。
「一瀬と申します」と男は千草に警察手帳を見せた。
心臓が飛び出るかと思うほど驚いたが、千草は平静を装った。
「実は、近所の公園で小学生の女の子が行方不明になっていまして・・・」
「・・・ニュースで見ました」
「何か最近、不審人物や気になるもの見聞きされたりしていませんか?」
「・・・いえ、何も」
「そうですか」
「誘拐を疑っているんですか?」
「えぇ。小さい女の子ですからね」
「・・・犯人の目星はついてるんですか?」
「現在、鋭意、捜査中です」
「あっ、このあたり、古くからの井戸が結構そのままになっていたりするんですよ。もしかしたら、草藪に隠れていた井戸に落ちたのかも・・・」
「なるほど・・・その可能性もありますね。情報ありがとうございます・・・この辺りには井戸に巣食う化け物が子供をさらうって言い伝えもありますしね」
「・・・あなたも地元はこのあたりなの?」
「あ・・・ええ、まぁ」
千草が住む地域は、水源が豊富で古くから井戸水の利用が盛んだった。
今はもうほとんど使われなくなり、無数の井戸が打ち捨てられ、
ほとんどは存在すら忘れられて草薮の中に隠れている。
子供が井戸に落ちて怪我をした事故も過去に実際に何度もあった。
子供を井戸に近づかせないためか、この地域には、井戸にまつわる怪談話が伝えられていた。
いわく、井戸の中には妖怪が住んでいて、時折、地上に現れては子供を食べてしまうという。
パターンはいくつかあるが、井戸の中に化け物が住んでいて子供を襲うという部分は共通だ。
危ない井戸に近づかないよう大人達がこしらえた注意喚起の物語に違いないが、その地域では知らない人間はいないほど有名だった。
ふと、一瀬の目線が、雨戸も閉め切った剛の部屋に向いた気がした。
「ところで、ご家族は?お一人で暮らしているんですか?」
「息子が1人。けど、もう10年以上、口も聞いてませんし、顔も見てません」
千草は、なるべく剛の部屋の方を見ないようにして素っ気なく答えた。
嘘はついていない。
実際、10年以上剛とは言葉を交わしていないし、姿も見ていない。
すると、同情してくれているのか、なぜか、一瀬が少し寂しそうな顔をしたように見えた。
「・・・そうですか。ご協力感謝します」
その夜。
千草は、剛の部屋の前に座り込み呼びかけた。
「剛。何か悩んでるなら、言って。母さんちゃんと聞くから。母さんは最後まで剛の味方だからね。何があっても、守るから」
千草はポケットから、古びたお守りを取り出した。
「覚えてる?剛が4つの時、神社でお守り買ったでしょう?剛がお母さんと一緒じゃなきゃ嫌だっていったから同じの2つ買ったよね。母さんね、ずっと肌身離さず持ってるんだよ。剛を守ってくださいって毎日祈ってる・・・」
自然と涙がぽつぽつとこぼれた。
「お願い、剛。母さんを信じて。一緒に警察に行こう」
すると、ウオーッという獣のような咆哮が剛の部屋から上がった。
ドンドンドン!と内側から扉を叩く音が鳴る。
「お願い、剛。もうやめて!」
千草は耳を塞ぐことしかできなかった。
翌朝。
ニュースでは、平井彩香ちゃんの失踪事件の続報がトップで報道されていた。
ボランティアの人も加わり大規模に捜索を行っているとの報道に、千草は胸を締めつけられる思いだった。
その時、インターフォンのチャイムが鳴った。
玄関を開けると、刑事の一瀬の姿があった。
「お母さん、どうも」
ニッコリと屈託なく笑う一瀬を千草は警戒した。
一瀬は、親しみを込めて『お母さん』と呼んでいるのだろうが、違和感しか覚えなかった。
「実は、2、3おうかがいしたいことがありまして・・・」と一瀬は家に上がろうとする。
「ちょっと今、手が離せないんです」
なんとか千草は言い逃れようとするが、
「すぐすみますから」と一瀬も譲らない。
何度か押し問答をした結果、これ以上、怪しまれないよう、押し切られる形で一瀬を家にあげることになってしまった。
お茶を出すと、一瀬は「あちち」と言って微笑んで一口飲んだ。
その後も一瀬は一向に話を切り出すこともなく部屋を観察しては、時折、千草に目線を向ける。
問い詰められることを予想していた分、余計に不安がこみあげる。
一瀬が何を考えているのか、千草には全くわからなかった。
「それで・・・お聞きしたいことってなんですか?」
しびれを切らして千草の方から切り出した。
「えーっと、どこからお話すればいいのか、戸惑われる部分もあると思うのですが・・・あ、これ、美味しいお茶ですね」
となかなか本題を切り出さず世間話を続けようとする。
千草は、一瀬の意図がわからず戸惑うしかなかった。
それからしばらく世間話を続けると、ふいに、一瀬が「お手洗いお借りしてもよろしいでしょうか」
と席を立った。
千草は、その背中を緊張した様子で見送った。
一瀬が廊下を歩いていると、「たす・・・けて」と女の子の声が聞こえる。
ハッとして、声がした廊下の奥へ足を進め、剛の部屋の前にたどりついた。
一瀬が、ドアノブに手を伸ばした瞬間、背中に鈍い痛みが走った。
千草が、包丁で一瀬の背中を刺していた。
「ど・・・どうして?」
千草は、一瀬を床に押さえつけて、懇願する。
「お願いします!剛を連れていかないでください。私にはあの子だけなんです!お願いします・・・剛!逃げて」と千草は剛の部屋に向かって叫んだ。
その時、一瀬の手から、何かがポトリと落ちたのが見えた。
血に染まった古びたお守り。
それは千草と同じお守りだった。
千草は困惑した。
「どうして、これを・・・」
「母さん・・・僕です。剛です・・・」
一瀬の口から出てきたのは衝撃の事実だった。
千草の脳裏に過去の記憶がよみがえる。
夫との離婚。1人息子の剛の親権を取られ、泣く泣く手放さなければならなかった。剛を乗せた電車が去っていくのをいつまでも走って追った。
見送った小さな剛と目の前の一瀬の顔が一致しない。
父方で育てられた剛は、父の姓である一瀬の名字となり、警察官になっていたのだった。父親から母に会うことは固く禁じられていた。
父の死後、母の地元に赴任した剛は、自分を覚えてくれているかわからない母・千草を訪ねに来たのだった。
「・・・剛なの?」
ようやく夢から醒めたように千草は正気を取り戻した。
・・・その時、剛の部屋のドアが開く。
ドアの隙間から、水で膨らんだ奇妙な手が出てくる。
現れたのは化け物だった。
かろじて人間の形をしているが、手も足も身体もブヨブヨにふくらんでいて青黒い色をしている。
その姿は、水死体を連想させた。
部屋の中、剛の部屋の床板が外れ、古びた井戸が顔を出していた。
部屋の片隅に、失踪した平井彩香の姿があった。
少女は井戸に巣食う化け物にさらわれていたのだった・・・。
「・・・母さん・・・一体、何を育てていたんですか?」
一瀬は苦痛に顔を歪め、千草にたずねた。
1人息子を奪われた千草は、抜け殻のような日々を送っていた。
そんなある日、剛の部屋から物音を聞いた。
扉は開かなかったが、剛の存在を感じた。
剛が帰って来たのだ・・・。
千草は、以来、引きこもりの息子・剛を育てていると思い込むようになった。
剛の部屋から出てきた井戸の化け物は、一瀬を捕まえて部屋に引きずり込んだ。
一瀬を羽交い締めにしたまま、化け物は井戸の淵に立った。
井戸の化け物は、千草に穏やかな目を向ける。
本当の母親だと思っているかのように。
しかし、一瀬が抵抗すると、井戸の化け物は歯を剥き出して威嚇し、一瀬「井戸の中に引きずりこもうとした。
「お願い!やめて!」
千草がそう言うと、井戸の化け物は苛立った様子を見せた。
「私が代わりに行くから、その子は離して、ね?」
井戸の化け物は、考え、一瀬を解放すると千草の身体を担ぎ上げ、井戸の淵に立った。
一瀬は懸命に起き上がり叫ぶ。
「母さん、だめだ!」
千草の目から一筋の涙がこぼれた。
愛おしむように一瀬に手を伸ばし、
「立派になったね。一目会えて本当によかった」
その瞬間、井戸の化け物は千草ごと井戸の中に身を投じた。
「母さんっ!」
一瀬の悲痛な叫びが暗い井戸の中で何度もこだました。
家の前にたくさんの警察車両が到着していた。
救出された少女は家族と再会を果たした。
担架に乗せられた一瀬に上司の刑事が尋ねた。
「一瀬。一体、何があったんだ?」
「・・・井戸の化け物が出たんです」
一瀬の目は痛みからか涙で濡れていた。
その地域では最近、子供達の間で奇妙な噂が広まっている。
草薮に隠れた古びた井戸に耳を傾けると、その奥深くから、子守唄が聞こえるのだという・・・。
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