【怖い話】ここじゃない

「ここじゃない」
その声をAさんがはじめて聞いたのは、会社の飲み会の帰り、地下鉄の駅のホームでだった。
右耳の後ろあたりから、はっきりと男性の野太い声でそう聞こえた。
すぐ後ろに誰か立っているのかと思って振り返ったが、ホームの壁の広告が見えるだけで、誰もいなかった。
聞き間違いなどではない。
息がかかるくらいの距離に声の主の気配をはっきり感じた。
・・・まさか幽霊?
Aさんは、背筋が寒くなった。

それから一週間くらいして、今度は会社のトイレの個室で、その声は聞こえた。
「ここじゃない」
同じ台詞、同じ男の声。

三度目は、休日に車を運転している時。
スピードを上げて走っていた時に、いきなり「ここじゃない」と声をかけられ、危うく事故にあいかけた。

ただ声をかけられるだけ。
身体に不調もなければ、不幸な目にあったりもしない。
1ヶ月過ぎた頃には、声を聞いた回数は軽く10回を越えていた。
声がするのは自宅だったり、外出先だったり、朝もあれば夜もあった。
まるで規則性がない。
「なにが、ここじゃないんだ!」
たまらず、Aさんは声をあげたこともあった。
だけど、返答は何もなかった。

幽霊に取り憑かれているにしても、ただただ「ここじゃない」という台詞を機械的に繰り返すだけ。
何かを探しているのか、どこかへ行きたいのか、なんの手掛かりもない。

三ヶ月もそんな状態はつづいたが、ある日、Aさんは、とある考えにたどりついた。
きっかけは、昼食で中華料理屋に入ろうとした時のこと。
「ここじゃない」
また、いつもの声がした。
(ここじゃない?じゃあ飯は別の場所で食べるか)
なんとなく声に従ってAさんは別のお店に変えた。
すると、改めて選んだ店が、食通のAさんも満足するいいお店だった。
(もしかして、あの声は場所を変えろという天の声なのか?)
Aさんははじめて、そういう考えにいたった。
幽霊に取り憑かれているのだと鬱々と考えるよりは、よほど健全な考え方に思えた。
それから、Aさんは、「ここじゃない」という声が聞こえたら、場所を変えることにした。
お風呂に入っていて「ここじゃない」と聞こえたら、すぐにあがる。
会社で仕事中に「ここじゃない」と声がしたら、用事をつくって外出する。
声に従って行動することを心がけた。
そうしたからといって、大きな幸せが舞い込むというサプライズはなかったが、そうしなかったことにより日々のちょっとした不幸を避けられているのかもしれない、とAさんは考えるようにした。

そうして1年が過ぎ2年が過ぎていった。
声との付き合いはだいぶ長くなった。
今では、「ここじゃない」という声は、虫の音と同じくらいにしか感じなくなっていた。

ある日、Aさんは付き合っていた彼女とドライブにでかけた。
海沿いの道を走っていると、眺めがいいビュースポットが近くにあると助手席の彼女がネットで調べて言ったので、立ち寄ってみることにした。
数台が停車できる小さな駐車場に車を止めて、林道を海の方に向かって歩いていく。
その時、ふいに、右後ろから男の野太い声がした。
「ここだ!」
Aさんは思わず足を止めた。
聞き間違いかと思った。
延々と「ここじゃない」を聞かされてきたばっかりに耳を疑った。
なぜ今なんだ。どうしてここなんだ。
頭の中を疑問が駆け巡る。
「どうかした?」
立ち止まったAさんを、不思議そうに彼女が振り返った。
「なんでもない」
Aさんは再び歩きはじめた。
「ここだ!」
またもや聞こえた。
彼女がいる手前、気にしないよう、歩みを進める。
しかし、数歩歩くたびに、「ここだ!」と声がする。
波音が聞こえるまで海に近づいた時には、数歩どころか一歩ごとに声がした。
「ここだ!ここだ!ここだ!」
何度も連呼されるうち、頭が痛くなってきた。
(なにがここなんだ!)
イライラと心で問いかけても返事はない。
やがて、景色がひらけた。
切り立った崖の向こうに黒い海が広がっていた。
「わぁ、きれい」
絶景に感嘆する彼女を尻目に、Aさんは脂汗を浮かべていた。
「ここだ!ここだ!ここだ!ここだ!ここだ!」
声は止まらない。もう限界だった。頭をずっと金槌で叩かれているような苦しさだった。
楽になりたい。
あの柵を越えて海に飛べば楽になれる。
死の誘惑がAさんにささやきかける。
フラフラと足を進め、柵に手をかけ、乗り越えようとして、いきなり後ろにおもいきり引っ張られて地面に倒れた。
「なに考えてるの!」
怒った彼女の顔がAさんの目の前にあった。

後で調べたところ、その崖は地元で有名な自殺の名所だった。
結局、Aさんは、悪い霊に取り憑かれていたのだろうと自分で納得した。
アドバイスをくれる天の声かもしれないなんてとんだ馬鹿げた考えだと思い直した。
声の主はあの崖で自殺した人間なのだろうか。
自分が死んだ場所は「ここじゃない」という意味でずっとAさんに語りかけていたのか、それともAさんを死に誘うのは「ここじゃない」という意味だったのか。
今となっては答えは知りようもない。

あの崖を訪れて以来、Aさんが声は聞くことは二度となかった。

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