第86話「靴」

ある日、自転車で夜道を自宅まで帰っていた時のことです。
私は、町役場の出納課に勤めていて、もうすぐ確定申告の時期ということもあり、連日、帰るのは夜遅くになっていました。
今週末は、妻と中学生になる息子と、山登りに行こうかなんて話しをしていて、そのプランを考えながら、自転車を漕いでいました。

私が住んでいる地域はいわゆる田舎です。ほとんど電灯なんてありませんから、自転車の頼りないライトだけが唯一の明かりでした。
川沿いの道を登っていって、やがて橋にさしかかりました。
この橋がちょうど家と町役場の中間地点になります。
車一台通れるだけの細い橋です。

その橋を渡っていた時のことでした。
自転車の明かりが、地面にある何かを照らし出しました。
靴でした。
量販店で売っているような運動用のスニーカーが、欄干の方に向けられ、揃えて置かれていました。
それを見たら、誰もが自殺を疑うでしょう。
ただ、その橋は川から2mの高さもなく、飛び込んで自殺できる橋などでは決してないので、間違いなく誰かのイタズラだと思いました。
不謹慎なことをする輩がいるものだと、呆れる気持ちでした。
そのまま靴の横をスルーして自転車を漕いでいきました。

その時でした。
私が自転車を漕ぐ音と川のせせらぎに混じって、別の音が後ろから聞こえた気がしました。
なんだろうと思って振り返ってみると、さっきまで欄干の方を向いていた靴が私の方を向いていたのです。
私は、思わず悲鳴をあげそうになりました。
すると、驚いたことに、靴がひとりでにペタ、ペタと歩き始めて、私の方に向かってきました。
私は、逃げるように自転車を漕ぎました。

橋を渡りきると、なだらかな下り道です。
私は、必死にべダルを漕ぎました。
時折、振り返って後ろを確認しましたが、暗闇が広がっているだけでした。
その時でした。
ペタペタペタ・・・。音が後ろから近づいてくるのが聞こえました。
来た!私は漕ぐスピードをあげました。
ですが、音はどんどん近づいてきます。
ペタペタペタペタペタ・・・。
ついには、私が漕ぐ自転車の横に並びました。
恐る恐る横目で見ると・・・いました!
靴が自転車と並走していたんです。足はありませんでした。ただ靴だけでした。
私は驚いて、転倒してしまいました。

幸い頭だけは守ることができましたが、全身が痛みました。
アスファルトの冷たさが肌に突き刺さりました。
数m先に倒れた自転車が見えました。
車輪がカラカラと音を立てていました。
ハッとして周りを見ました。靴は!?あの靴はどこにいるんだ!?
ですが、見回してみても、どこにも靴はいませんでした。
よかった・・・と思い、私は立ち上がりました。
ですが、おかしいのです。私は、その時、立ち上がろうとなんて思ってなかったんですから。
足元を見て気がつきました。
私が履いていたのは、追いかけてきていた靴でした。私が履いていた靴と入れ替わっていたのです。

私は、歩き始めました。自分の意思とは関係なしに。
靴が私の身体を操っていました。抵抗できませんでした。頭では足を止めようとしているのに、勝手に足が動いてしまうのです。

私の身体は、道を外れて、藪の中に入っていきました。ずんずん山の奥に向かっていきます。
いやだ、やめてくれ!心でいくら叫んでも、足は止まってくれません。
どこに連れて行く気なんだ!?叫びたくても声も出ませんでした。
小枝や葉っぱが容赦なく顔に当たりました。

その時、急に足が止まりました。ふいに嫌な臭いが鼻をつきました。そこは、小高くなった崖の下でした。私の足元に人が倒れていました。一目見て死んでいるのがわかりました。臭いからして死後数週間は経っていたのではないでしょうか。
見ると、その死体は、靴を履いていませんでした。
自分を見つけて欲しい。その想いから、靴だけがひとりでに動き出してしまったのでしょうか。
さっきまでの恐怖は消え、悲しい気持ちになりました。

以上で私の恐怖体験は終わりなのですが、一つ困ったことがあるんです。
・・・今でも、脱げないんですよ、その靴が。

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