第42話「鏡」

2016/09/01

私は幼い頃から鏡が苦手だった。

理由は明快だ。
じっと見つめるうち、鏡の中の自分が意志を持って勝手に動き出すのではないか、そんな想像がよぎって怖くなるからだ。
その思い込みが強かったせいか、高校生の時、私は恐ろしい体験をしてしまった。

その日、私は吹奏楽教室に忘れ物をしてしまい、一人だけ引き返すことになった。
時刻は6時過ぎだったと思う。空は茜色に染まっていた。
私は、忘れ物を取って、4階から階段を下りていった。
各階の踊り場には全身が映る大きな鏡が設置されていて、私はそこを通るのが大嫌いだった。
いつもは鏡を見ないように足早に通り過ぎるのだが、その日はなぜか、3階の踊り場にある鏡の前で足を止めてチラッと見てしまった。

その時だった。
私は雷にでも打たれたように金縛りにあった。
全身が硬直してまったく動けなくなった。
鏡の中の私が不安そうに見つめ返している。
もがいても、もがいても身体が言うことをきかない。
突然、鏡の中の私の表情がスッと無表情になったかと思うと、クルリと向きを変え私を置きざりにして階段を降りていってしまった。
目の前の光景が信じられなかった。
私は鏡の前で動けなくなっているのに、鏡には誰も映っていないのだ。

金縛りはまだ解けなかった。
その時、上から誰かが階段を降りてくる足音が聞こえた。
「助けて」と声に出そうとするのだが、口から音が出てこない。

カツン・・・カツン・・・カツン・・・

ゆっくりと足音が近づいてくる。

カツン・・・カツン・・・カツン・・・

足音が私の後ろで止まった。
その人は私の後ろにいるはずなのに、鏡には誰も映っていなかった。
確かに人の気配はあった。生温かい息がうなじにかかるのを感じた。
振り向きたくても振り向けなかった。
恐怖のどん底だった。
突然、誰かが私の背中をドン!と突き飛ばした。
私の身体は鏡に衝突し、中に吸い込まれていった・・・。

気がつくと、私は踊り場の鏡の前で倒れていた。
心配そうに呼びかける吹奏楽部のメンバー達の顔があった。
あまりに遅いので心配して迎えにきてくれたらしい。
保健室に運ばれ、貧血で気を失っていたのだろうと診断された。

それ一度きりで、他に恐ろしい体験をしたわけではない。
でも、時折、思うのだ。
今、私がいるのは本当に現実世界なのだろうか、と。
あの時、本当は鏡の中の世界に吸い込まれてしまっていたとしたら・・・。
・・・鏡の中の私が、薄らと笑いかけている気がするのは気のせいだろうか。

 

-ショートホラー