【怖い話】家族のカタチ
T嶋さん夫妻が、M岡さんの隣の部屋に越してきたのは去年の夏のことだった。
T嶋さんの旦那さんは、大手銀行の営業職とのことで知的な顔立ちをした40歳くらいの人だった。
奥さんは旦那さんより少し若く見えた。
奥さんは貿易関係の会社に勤めるキャリアウーマンだという。
M岡さんは、子供も自立し定年退職した旦那さんと2人で暮らすには広い一軒家を売りに出し、夫婦で今のマンションに移り住んだ。
そんなM岡さんにしてみれば、T嶋さんは若くて眩しい夫婦だった。
引っ越しの時に挨拶してからは、表で会った時に声をかける程度で付き合いは全くといってなかった。
かつて住んでいた一軒家では、自治会や子供会やらで嫌でも近所付き合いせざるをえなかったが、都会の希薄な人間関係がかえってM岡さんには性に合っていた。
ある土曜日のこと。
部屋の掃除をしていると、壁の向こうから、言い争う声が聞こえた。
一報は子供のようなキンキンした声、もう一報は母親らしい女性の怒鳴り声だった。
そのマンションは新築物件で防音はかなりしっかりしていたものの、壁向こうの隣の部屋の大声は聞こえはするらしい。
何を言っているのかは聞き取れなかったがM岡さんは意外な気がした。
温厚そうなT嶋さんの奥さんがあんな怒鳴り声をあげるというのもそうだが、何よりT嶋さん夫婦に子供がいたことを全然知らなかったからだ。
振り返ってみれば、引っ越しの挨拶以来、ほとんど顔を合わせてないので、T嶋さんのことを何一つ知らないに等しいのだが、なんとなく子供はいないものだと思い込んでしまっていた。
「T嶋さんも子育て大変ね」などと、その時は呑気に考えていた。
そんなことがあってから2ヶ月ほど経った、ある夜のこと。
その日は、旦那さんが勤めていた会社の元同僚達と飲みに出かけていたので、部屋にはM岡さんひとりきりだった。
夜も更けて布団の中でうつらうつらしていると壁の向こうのT嶋さんの部屋から声が聞こえてきた。
1人は男の人の声。おそらく旦那さんだろう。
もう1人はかなりの高齢の女性の声だった。
2人もまた言い争いをしていた。
T嶋さんの部屋にはご両親も一緒に暮らしていたのかとM岡さんは驚いて声がする壁を見つめた。
いや、よく考えてみたら、たまたまどちらかのご両親が訪れているだけかもしれない。以前聞いた子供の声も姪っ子や甥っ子が遊びにきていただけなのかもしれない。
M岡さんは、いまさらながら自分の早とちりに恥ずかしい気持ちになった。
だってそうよね、いくらなんでも2DKのマンションじゃ、夫婦と両親が同居するには狭すぎるもの。
M岡さんは自分の浅さはかな短慮がおかしくなってきて、布団の中でクスッと笑った。
「そういえば、隣のT嶋さん、子供と両親も同居しているんだな。知らなかったよ」
ある日の夕御飯、旦那さんが、M岡さんに突然言った。
旦那さんは趣味で盆栽をベランダで育てている。
その手入れをしていたら、隣の部屋から、年配の女性が子供を叱っている声がしたのだという。
『お前は本当にだらしがない子だ』
『うるさいババア』
そんな罵り合いが聞こえたという。
「そんなわけないわよ。私も勘違いしかけたけど。姪っ子や甥っ子がおばあちゃんと遊びにきているのよ」
「でも昨日もその前の晩も声がしたぞ。そんなにしょっちゅう姪っ子や甥っ子が来るか」
「え」
M岡さんは固まってしまった。
そんなに頻繁にいるのだとしたら、やはり同居しているのだろうか。
でも、不思議だった。
もう半年以上経つのに、一度も姿を見かけたことがない。
都会の人間関係が希薄とはいえ、なんとも奇妙な気持ちになった。
「やめましょ。人さまのお家のこと、あれこれいうの」
「ん」
旦那さんは、それ以上、この話を続けることはなかった。
けど、30年以上連れ添った仲だ。
顔を見れば、M岡さんと同じく、心に引っかかるものを感じているのはわかった。
その日の夜のことだった。
ドン!ガチャン!
というものすごい音でM岡さんはハッと目が覚めた。
隣の旦那さんも目を覚ましている。
音は隣のT嶋さんの部屋からだった。
『ババア、殺してやる!』
男の子の甲高い叫び声。
『あんたの顔なんて二度と見たくないよ!』
高齢女性の声が負けじと言い返す。
「こんな夜中になにやってるんだ。なんであの夫婦は止めないんだ!」
旦那さんがイライラした様子で言うので、M岡さんはなだめようとした。
「色々家庭の事情があるのよ」
すると、おもむろに旦那さんが布団を抜けて、立ち上がった。
「あなた、どこにいくの?」
旦那さんは鼻を鳴らして、ドタドタと玄関の方に向かう。
不安になったM岡さんは慌てて旦那さんを追った。
玄関を開けて廊下に出ると、ちょうど旦那さんがT嶋さんの部屋のチャイムを鳴らしたところだった。
時刻は深夜1時。
訪問には非常識な時間だし、人の家庭に口を出すのはトラブルのもとだと思っていたM岡さんはハラハラした。
一軒家だった時は、ご近所中が知り合いばかりだったしこんな問題は起きなかったのに。
数秒して、玄関のドアが開いた。
怪訝な顔をしてT嶋さんの旦那さんが顔を出した。
「なにか?」
「T嶋さん。余計なこととは思うけど、おばあさんとお子さんの喧嘩、止めた方がいいんじゃないか。深夜に音がうちまで聴こえてるんだよ」
すると、T嶋さんの旦那さんは困惑した顔になった。
「うちには妻と私しかいませんよ?」
M岡さん夫妻はギョッとした。
自分達の聞き間違いだったのだろうか。
その時、玄関ドアの向こうの廊下にT嶋さんの奥さんが顔を出した。
見える限り室内は整頓が行き届いていて、人が隠れられるとしたら居室の2部屋だが、騒音トラブルを訴えにきた相手をそうまでして煙に巻こうとするだろうか。
M岡さんの旦那さんは、どうしていいかわからず口をもごもごさせた。
「勘違いだったのかな。深夜に無礼なことを。申し訳ない」
「誰にでも勘違いはあることです。気にしていませんよ」
菩薩のような笑みでT嶋さんの旦那さんは言った。
自分達の部屋に戻ってきたM岡さん夫妻は、恥ずかしいやら申し訳ないやらで、やるせない気分だった。
旦那さんは酒をあおるように飲み出し、どうにも眠れなかった奥さんも相手をした。
「一体なんだったのかしらね」
「わからん」
その時だった。
再び、壁の向こうから高齢の女性と男の子の言い争う声が聞こえ出した。
『お前のせいで、お隣に文句を言われたじゃないか』
『ババアがうるせえからだろ、人のせいにすんな』
聞き間違えなどではなかった。隣のT嶋さんの部屋から聞こえてくる。
M岡さん夫妻は、顔を見合わせ、ベランダに出た。
隣の部屋から言い争う声はまだ続いていた。
旦那さんがベランダの柵から身を乗り出し、お隣の部屋を覗き込んだ。
旦那さんは、何かに気づいた様子で目を見開き、そして固まった。
「何か見えた?」
囁き声で奥さんが尋ねると、旦那さんは身体を戻して奥さんに言った。
「お前も見てみろ」
「私は無理よ」
「頼む。見てくれ」
奇妙なことに旦那さんは怯えた様子だった。
そんな旦那さんの様子が珍しかったので、M岡さんは勇気を振り絞って、ベランダから身を乗り出し、隣の部屋を覗いてみた。
カーテンに隙間があり、部屋の様子がうかがえた。
見えたのは、T嶋夫妻の姿だった。
2人は向き合って罵り合っていた。
M岡さんは、目にした光景を疑った。
奥さんの口からは、おばあさんのような嗄れた声が、旦那さんの口からは声変わり前の男の子の高いアルトの声が発せられていた。
身体と声がまるでちぐはぐで、一体、自分が今見ているこれはなんなのか理解ができず、寒気が背中に走った。
奥さんは、尻餅をつくように、自分の部屋のベランダに戻ってきた。
2人とも震えが止まらなかった。
M岡さんは、あの夜以来、T嶋さん夫妻とは会っていなかった。
旦那さんとも、あの夜の出来事について話し合うことはなかった。
何事もなかったかのように、日常の生活を取り戻したフリをした。
そうすることであの夜の恐怖と向き合わないようにしていた。
「M岡さん」
買い物帰り声をかけられてハッと振り返った。
T嶋さんの奥さんだった。
「こ・・・こんにちは」
声がうわずってしまう。
マンションまで500mほどある。
自然と並んで歩くような形になってしまった。
しばらく無言が続いた。
何を言えばいいのかわからない。
T嶋さんの顔を見ると、あの夜のおばあさんのような声をどうしても思い出してしまう。
「ご覧になったんですね」
T嶋さんが切り出した。
「え?」
「私と主人のこと」
「なんのこと?」
しらじらしい声だったが、どうか相手に悟られないようにと祈った。
「もういいんですよ、M岡さん。頭のおかしい夫婦だと思ってらっしゃいますよね?」
何も言い返せない。
「こんな話しても何も変わらないと思いますし、ご迷惑なだけかと思いますけど、、、私も主人も生まれた時から身寄りが全くないんです。子供もできませんでした。2人とも家族というものをまったく知らずに育ったんです。だからでしょうね。いつからか、主人と私は、他の家族の役割も演じるようになったんです。主人は私の子を、私は主人の母を。私が主人の妹や娘になったり、主人が私の父や兄になることもあります」
M岡さんは呆気に取られるばかりだった。
「ロールプレイというらしいです。ご理解いただけないかと思いますが、私たちはこれで幸せなんですよ」
そう言って、T嶋さんの奥さんは本当に幸せそうに笑った。
M岡さんは、自宅に帰ると、旦那さんにさきほどT嶋さんの奥さんに聞いた話をした。
「すごい話だな」
旦那さんは、そうボソッとつぶやいた。
その後も時折、隣の部屋から言い争う声が聞こえることがあったが、旦那さんは怒鳴り込んだりしなかったし、M岡さんも気にしなくなった。
T嶋さんとは顔を合わせれば変わらず挨拶をするが、それだけだ。
隣の夫婦が家の中で色々な別人を演じ分けていたとしても、何か害があるわけではないし、M岡さんの生活が変わることもない。
そう考えたら、気が楽になった。
けど、最近、M岡さんが1つだけ悩んでいることがある。
旦那さんが、「夜トイレに1人で行くのが怖い」とM岡さんの同行を求めるようになったのだ。
そういう時、旦那さんは、まるで5歳児のようにM岡さんに甘えた態度を取ってくるという。
30年以上の夫婦生活で今までそんな態度をとったことなど一度もなかったのに。
M岡さんは、そんな旦那さんを見るたび、T嶋さん夫婦を思い出し、空寒い心地がするという。
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