犬鳴峠の怖い話

福岡県の山間部にある犬鳴峠は九州地方で最も有名な心霊スポットの一つだ。
犬鳴峠には、犬鳴村という地図にのっていない隠れた村があり住民に見つかると殺されてしまうという都市伝説や、車で犬鳴峠を走っているとドライバーが正気を失って事故に遭うという怪談など、数多くの怖い噂がある。
実際、旧道にあるトンネルでは、少年が焼殺される痛ましい事件の記録も残っている。

これは、そんな犬鳴峠で大学生のS谷さんが体験した怖い話だ。

ドン!という衝突音と、弾かれるような衝撃を感じS谷さんは目を覚ました。
目の前に助手席のシートが見えた。
頭をシートに強く打ちつけたらしく、目の奥に鈍い痛みを感じた。
交通事故にあったのだとすぐにわかった。

その場所が犬鳴峠だとS谷さんが知ったのは後からのことだ。
大学の同級生であるS谷さん、Y本さん、A川さん、N下さんの4人で日帰りで遊びに行った帰り道、S谷さんが後部座席で眠っていた間の出来事だった。

「大丈夫か?」
S谷さんは首を伸ばして運転席のA川さんの様子をうかがった。
A川さんは呆然とした様子で前方を見つめていた。
S谷さんは、A川さんの視線の先に目をやった。
ヘッドライトの明かりの中、峠道に倒れている人影があった。
人をはねたんだ・・・。
身体中から血の気が引くのがわかった。
急に体温が奪われたように寒気を感じた。
とにかく、被害者の怪我の具合を確かめないと。
S谷さんはドアを開け、車から降りた。
他の3人もS谷さんに続いた。
一番遅かったのはドライバーのA川さんだった。
運転していたA川さんが一番、ショック状態に見えた。
S谷さんは車の前方に周り込み、人影に歩み寄った。
人影は車から10mほど遠くまで跳ね飛ばされていた。
果たして無事なのか。心臓が早鐘を打った。
近くまで寄っても血溜まりは見えない。
被害者は女性だった。
長い黒髪が扇のように広がり、白いブラウスとスカートをはいているのが見えた。
Y本さんが、S谷さんを追い抜き女性の脈を調べた。
「・・・ダメだ。脈がないよ」
「嘘だろ!」
叫んだのは、N下さんだった。
「いきなり飛び出してきたんだ、避けようがなかった」
運転していたA川さんは、声を震わせて今にも泣きそうだった。
Y本さんは立ち上がると、電話をかけはじめた。
「救急車呼ぶのか」
S谷さんが尋ねると、Y本さんはコクリと小さくうなずいた。
押し殺した声で電話をするY本さんを横目に、S谷さんはその時はじめて周りの風景に目がいった。
車線がない真っ暗な細い峠道。
車のヘッドライト以外は全く明かりがなく、周りは鬱蒼とした木々に囲まれている。
S谷さんの最後の記憶では、マクドナルドやパチンコ店が並ぶ幹線道路を走っていたはずなのに。
「ここどこ?」
自然と疑問が口に出た。すると、N下さんとA川さんが気まずそうに目配せしたのがわかった。
「・・・犬鳴峠」
A川さんがボソリと告げる。
わけがわからなかった。
オカルト話にさして興味がないS谷さんでさえ、犬鳴峠がどんなに危険なスポットかは知っていた。
「なんで?」
「N下が・・・」
「オレのせいにする気かよ!お前だって、いってみようって言ったろ」
どうやらN下さんが犬鳴峠に寄ってみようと言い出したらしい。
N下さんは、小心者なのに心霊スポットや怖い話の類が好きな典型的なタイプだった。
N下さんとA川さんが喧嘩になりかけた時、Y本さんが電話を終えた。
「15分くらいで、きてくれるって」
「それまで、どうする?」
「車の中で待とう」
「そうだな」
4人は、車の方に戻っていった。
車まであと一歩というところでS谷さんは物音が背後でするのを聞いた。
なにげなく女性の遺体を振り返り言葉を失った。
遺体の顔が起き上がり、S谷さんたちを見ていた。
みんなにすぐ知らせないとと思うのだけど、喉から声がなかなか出ない。
女性の右手の肘が曲がり、地面に手をついた。
続いて左手も。
両手がしなるとバネで弾かれたように身体が持ち上がり、四つん這いになった。
「・・・おい、み・・・みんな!」
ようやく絞り出したS谷さんの声に振り返った3人は、数秒前まで死んでいた女性が四つん這いでこちらを睨みつけているのを目の当たりにした。
「ひゃっ!」
甲高い悲鳴をあげてN下さんは腰を抜かした。
4人とも女性の無事を喜ぶ気持ちにはならなかった。
白目を剥き、威嚇するように鼻梁をひくつかせている姿が、あまりに異様だったからだ。
4人が目の前の出来事に圧倒されていると、女性は四つん這いのまま道路脇の森に姿を消した。
その動きは、野犬のようだった。
「・・・追った方がよくないか?」
Y本さんが言った。
「なにいってるんだ!見ただろ。あれが普通の人間の動きか!?」
N下さんがヒステリックに答える。
「でも、怪我してたら・・・」
Y本さんの言葉は尻切れとんぼになった。
言ってはみたもののY本さんも女性を追いたくなどないのが顔を見れば明らかだった。
4人とも気持ちは同じ。
理解を超えた光景を目の当たりにし、戦慄を覚えていた。
「見ろよ」
その時、A川さんが車を振り返っていった。
「すごい衝撃だったのに、車がどこも傷ついてない」
A川さんの言う通り、車体にはへこみ1つできてなかった。
「俺たちがひいたのはほんとうに"ヒト"だったのかな」
「早くこんなとこ、引き返そうぜ」
N下さんがまくしたてる。
「でも、救急車と警察がこっち向かってるんだろ。逃げたらまずくないか」
Y本さんが冷静に言う。
「ライトもないのに森に入るのは危なすぎるし、ひとまず車で待たないか」
S谷さんの一言に残りの3人は無言で従い、車に戻った。
S谷さんがそう言ったのは、正義感でもなんでもなかった。
ただ、外に無防備で立っているのが怖かったからだった。
車の中に戻っても誰も口をきかなかった。
S谷さんは、外の暗闇が気になってしょうがなかった。
真っ暗な森の中から今にもさっきの女性が飛び出してきそうな気がした。
1分が1時間くらいに長く感じられた。
「全然来ないじゃないか」
30分くらい待って、N下さんがじれったそうに言った。
「おかしいな」
Y本さんが携帯を確認する。
「圏外になってる」
他の3人も確認したが全員圏外だった。
「たしかに電話したのか?」
「あぁ、15分くらいで着くって」
さらに10分ほど待ったが、誰も来ることはなかった。
「引き返そう」
A川さんが言うと、もう誰も反対しなかった。
対向車とのすれ違いスペースでUターンして、来た道を引き返した。
あの女性は何者だったのか。
モヤモヤした気持ちは残ったが、ようやく街の明かりが見えてくると、緊張と恐怖がやわらぎ、無事に帰れた安堵感に車内は包まれた。

それでも、魚の小骨のように、あの夜の出来事がS谷さんには引っかかって消えなかった。
家に帰ってきたはずなのに家にいないような、どうにも落ち着かず不安な気持ちがしこりとなって残っていた。
気がつくと、「犬鳴峠」についてネットで検索していた。
いくつもの怪談話や怖い写真が検索結果に引っかかった。
そして、S谷さんは、ある事実に気がつき、すぐに3人に連絡を入れた。

「俺たちが行ったのは犬鳴峠じゃないよ」
あの日乗っていた車の中に同じメンバーが集まっていた。
S谷さんはスマホの画像を3人に見せた。
道幅の狭い山道が門扉によって閉ざされている写真。
「犬鳴峠の問題の場所は、入れないように鍵がかかってるんだ。他の道は、ちゃんと片側1車線の整備された道だし、だからさ、俺たちがいたのは犬鳴峠じゃなかったんだよ」
「いや、ナビに住所入れたから間違いないよ」
A川さんが反論する。
「犬鳴峠じゃなかったら、どこだっていうんだよ」
N下さんがイライラした様子でいった。
「それはわからないけど、、、」
「俺もその写真見て同じこと考えた」
そう言ったのはY本さんだった。
「だろ?」
S谷さんはY本さんの同意を得られて嬉しくなった。
しかし、Y本さんは暗い表情だった。
「でも、あそこは犬鳴峠のはずなんだよ。ナビを設定する時、俺も見てたし。たしかに道はあってた。だからさ、俺達、犬鳴峠にあるはずのない道に迷い込んだんじゃないかな」
S谷さんが聞きたくない答えだった。
あの夜の悪夢のような出来事に説明をつけて恐怖をやわらげたかったのに、説明不可能なことを1つ増やしただけだった。
「なぁ、考えるのやめないか。もう終わったことなんだし」
A川さんが言った。
「俺もその方がいいと思う」
Y本さんが同意した。
3対1になり、その日は解散した。
けど、S谷さんは、このまま放っておいたらいけない気がしていた。

その日の夜。
悶々とした気持ちで眠れないでいると、A川さんから電話が入った。
「もしもし、A川?」
しかし、A川さんの返事はなく、荒い息遣いだけが聞こえてきた。
「A川?」
「・・誰かいる」
「誰かいるって、誰が?」
「アパートの外に誰かいるんだ」
「誰?どんなやつ?」
「わからない・・・でも、いるんだよ」
「わかった、すぐいくから。電話つなげたまま・・・」
途中で電話は一方的に切れてしまった。
折り返したけど、何度かけても繋がらなかった。
慌てて、Y本さんとN下に連絡を入れると、2人にもA川さんから電話があったという。
「外に誰かいる」、A川さんは2人にも同じことを言っていた。
S谷さんは、急いでA川さんのアパートに向かった。
途中、Y本さんとN下さんと合流した。
A川さんの部屋はアパートの2階。
表から見ると、電気がついていた。
アパートの外階段を上って、部屋のドアを叩く。
「A川!」
3人で名前を呼びながらドアを叩いたけど、返事はない。
S谷さんがドアノブをひねってみると鍵は開いていた。
部屋の中に、A川さんの姿はなかった。
携帯電話が床に転がっていて、食べかけのカップラーメンはまだ暖かかった。
S谷さんは、カーテンの隙間からアパートの外を見た。
「誰かがいるんだ」
A川さんが電話越しに叫んでいた声が頭の中をよぎった。

何時間待ってもA川さんは戻ってこなかった。
A川さんの失踪が犬鳴峠に行ったことやあの女性と関係があるのかはわからない。
ただ、携帯電話を置いて、遠くに出かけるのはあまりに不自然だった。
明日の朝までA川さんの部屋で待っても戻ってこなかったら、警察に行こうと3人は決めた。
近くのコンビニで夜食を買ってきて、3人は車座になって座って食べた。
「この頃、変な夢を見るんだ」
食事の最中、N下さんがぽつりと言い出した。
「夢?どんな?」
Y本さんがたずねた。
「真っ暗なトンネルの中にいて、どっちの方向に行っても出口がないんだ。走っても走っても、外の明かりが見えてこない。出られない、出られない、ってどんどん怖くなって、目が覚める」
「それって・・・」
言いかけたS谷さんをY本さんが目で制した。
「旧犬鳴トンネルなんじゃ」、S谷さんが言いかけて飲み込んだのはその言葉だった。
犬鳴峠の怪異の中心地。少年が焼き殺された場所。
Y本さんも、そう思ったからこそ、余計に不安にさせるようなことを言わないようS谷さんに目で合図したのだった。
お腹が膨れると、どっと身体に疲労を感じた。
身体が、鉛のように重く目蓋が閉じよう閉じようとする。

S谷さんは夢を見た。
夢の中で、暗くジメジメしたトンネルの中にいた。
嫌だ、こんなところにいたくない、、、
強くそう思った。
早く出ないと!
がむしゃらに走った。
けど、走っても走っても出口の明かりが見えない。
永遠に真っ暗なトンネルが続いているだけ。
ここで朽ちて死ぬんだ。
絶望を感じて、座り込んだ時、目が覚めた。

目を覚ますと、時刻は深夜の3時過ぎだった。
A川さんは戻っていなかった。
S谷さんが起きた物音で、向かいに座って寝ていたY本さんが起きた。
Y本さんは周りを見回して言った。
「・・・N下は?」
N下さんの姿がなかった。
トイレにもおらず、玄関には履いてきた靴が置きっぱなしだった。
財布や携帯電話もA川さん同様置きっぱなしだった。
なのに、N下さんは忽然と姿を消してしまった。
「なんで、なんでだよ」
S谷さんは、わけがわからず頭を抱えた。
A川さんに続きN下さんまで。それにあの夢。
やはり、犬鳴峠に行ったことと無関係とは思えなかった。
「警察にいこう」
S谷さんが言うと、Y本さんは首を横にふった。
「もうそういう問題じゃない気がする。知り合いの知り合いにお寺の息子さんで霊視ができる人がいるって聞いたことがある。その人に連絡を取ろうと思う」
朝を待ってY本さんは知人から、霊視ができるお寺の息子さんの連絡先を聞き出して、電話をかけた。
電話が繋がると、名乗るまもなく言われた。
「私に、君たちを助けることはできないよ」
S谷さんとY本さんは唖然とした。
「君たちはヒトが行ったらいけない場所に迷い込んだんだ。出口を探しなさい」
一方的に言われて、電話は切れた。
打つ手がなくなり、S谷さんは呆然とするしかなかった。
けど、一方のY本さんは何やら思案している。
「こらからどうする?」
S谷さんが聞くと、Y本さんは答えた。
「戻る」
「戻るって、まさか犬鳴峠に?」
Y本さんは首を縦に振った。
「S谷は、違和感がなかった?家に帰ってきても、家に自分がいないような、そんな感覚」
「あった」
「今の電話で気づいたけど、もしかしたら、俺達、あっち側の世界にまだいるんじゃないかな」
「あっち側の世界?」
「なんて言ったらいいのかわからないけど、現実じゃない別の世界。犬鳴峠がその入口だったんじゃないかな」
「あの山道に迷い込んだ時から、俺達は別の世界に迷い込んでたってことか?」
「本当は門で閉ざされてる犬鳴旧道に車で入れたのも説明がつくと思わないか」
「たしかに、そうだけど」
「電話で出口を探せって言われたろ?出口があるとしたら1つだけ」
「犬鳴峠か。でも、どこにあるのかわかるのかな」
「それは行ってみないとわからないけど」
S谷さんは気が進まなかった。これだけの怪異を経験したのに、わざわざその中心地である心霊スポットに戻るなんて、正気の沙汰じゃない気がした。
でも、それ以外に良い方法も思い浮かばない。
S谷さんとY本さんはお昼にはレンタカーを借りて、犬鳴峠を目指して出発していた。

道中、2人は無言だった。
A川とN下はどこに行ってしまったのか。
犬鳴旧道で遭遇したあの女性は何者なのか。
なぜトンネルの夢を見るのか。
それらが繰り返し頭の中を駆け巡る。
きっと、Y本さんも同じことを考えているに違いない。

日がのぼっているうちに到着したかったけど、犬鳴峠に続く国道21号線を走るうち、辺りは藍色に染まり始め、日暮れを迎えた。
新犬鳴トンネルに着いた頃には、対向車がだいぶ少なくなり、S谷さんはますます不安を覚えた。

「S谷、あれ」
Y本さんが声をあげたのは、新犬鳴トンネルを越えてすぐのことだった。
Y本さんが前方左側を指差す。
曲がり道が見えた。
車のスピードを落とす。
真っ暗な細い山道が国道21号線沿いから山に向かって伸びていた。
門扉は見当たらない。
本来の犬鳴峠にあるはずがない道。
Y本さんはハンドルを切り、車はゆっくりと山道をのぼっていった。
風景が一変した。
車のヘッドライト以外の明かりは一切ない。
道の周りは鬱蒼とした森で、木々が覆いかぶさるように伸びている。
あの夜に迷い込んだ道に間違いなかった。
いくつかカーブを曲がると、それは突然視界に飛び込んできた。
人だった。
白い作業着姿の男性が道の真ん中に立ち背中を向けている。
S谷さんとY本さんは顔を見合わせた。
男性は顔だけ、ゆっくりと振り返った。
S谷さんは悲鳴をあげそうになった。
男性の目は、完全に白目を剥いていた。
あの夜に車でひいた女性と同じだった。
その時、ヘッドライトの隅で何かが動いた。
人の足。
しかも1人じゃない。
何人もの人間が山道をこちらに向かって歩いてきていた。
全員、白い目をしている。
どこかうつろな表情をしていて感情が全く読めない。
Y本さんは、慌ててギアをバックに入れた。
しかし、バックミラーを見て、固まった。
「ダメだ、囲まれている」
S谷さんがバックミラーを見ると、後方からも何人もの白い目をした人間が向かってきていた。
「降りよう!」
S谷さんとY本さんは車を降りて、道の脇の山に逃げ込んだ。
下草をかき分け、木の根にころびながら、がむしゃらに走った。
明かりがないので方向感覚などわからない。
ただ前へ前へ走っていった。
やがて、息が続かなくなり、S谷さんは止まった。
「Y本!」
Y本さんの名前を呼ぶが返事はない。
無我夢中で走るうちにはぐれてしまったらしい。
立ち止まると、四方八方からガサガサと草が揺れる音がした。
今にも、さっきの白い目の集団が現れるような気がして、すくみあがりそうになる。
S谷さんは、震える足を奮起させ、前へ前へ進んだ。
どれくらい走ったろう。
急に藪を抜け、細い山道に戻った。
道の先に山よりも暗い漆黒の穴があった。
確かめるまもなく、旧犬鳴トンネルに違いないとS谷さんは思った。
近づいていくと、トンネルの入口が徐々に見えてくる。
でも、おかしい。
旧犬鳴トンネルはコンクリートで入口が閉ざされているはずなのに、目の前のトンネルはぽっかりと口を開けている。
やはりこの場所は現実とは違う世界なのだ、S谷さんはそう思った。
「Y本!」
S谷さんは、友の名前を読んだが、返事はなかった。
出口を探しさない・・・。
お寺の息子さんの言葉を思い出す。
トンネルを抜ければ現実に帰れるかもしれない。
わずかな希望にすがりつくように、S谷さんはトンネルの中に足を踏み入れていった。

トンネルの中は、氷点下のような寒さだった。
S谷さんは今更ながら、携帯電話のライトをつけて懐中電灯がわりにした。
ゴツゴツとした岩肌のいたるところから水が染み出していて滴っていた。
5分ほど歩くと入口がもうかなり小さくなっていた。
トンネルの全長はどれくらいの長さだったか。
ちゃんと調べておけばよかったと後悔した。
自分の靴音とピチョンピチョンという水滴の音だけが聞こえる。
夢を思い出した。
出口のないトンネルをいつまでも歩き続ける夢。
もしもこのまま夢と同じように出られなかったら、、、そう考えた途端、圧迫感を覚え、息が苦しくなった。
S谷さんは苦しさを振り切るように走り出した。
ここから出たい、出してくれ。
振り返ると入口が全く見えなくなっていた。
前も後ろもどこまでも闇のトンネルが続いている。
夢と同じシチュエーションだ。
嫌だ、そんなの嫌だ!
S谷さんはがむしゃらに走った。
けど、何十分走っても出口は見えてこなかった。
どこまで走っても同じ風景。
何度も同じ場所を通っているような感覚がしてくる。
永遠に続くトンネルに囚われてしまったのか。
S谷さんはついに座り込んでしまった。
携帯電話の明かり以外、漆黒の闇に包まれた空間に1人きり。
圏外の携帯電話を操作し続けることで何とか正気を保った。
Y本さん、A川さん、N下さんとのLINEのやりとりを振り返る。
2、3日前のくだらない日常のやりとりが遠い昔のことのようだった。
みんなどうしているだろうか。
他の3人も今の自分のように、1人ぼっちで異世界を彷徨っているのだろうか。
たまらなく3人に会いたかった。
手に水滴がポタポタと垂れてきた。
自分が泣いているのだと気づくのにしばらくかかった。
携帯の充電は残り38%。
充電が切れる前にトンネルを出られなければ自分はきっと正気を失うだろうとS谷さんは思った。
その時、前方から人の話し声が聞こえた気がした。
白い目の集団か。
だとしても、もう逃げる気力などない。
S谷さんは、壁に手をついて立ち上がり、話し声がした方へ歩きだした。
やがて、前方に小さな光の点が見えた。
光の点はだんだんと大きくなった。
出口だ!
希望がS谷さんの足を前へ走らせた。
トンネルの外は夜が明けていた。
入口に3つのシルエットが見えた。
Y本、A川、N下、みんなが待っている。
帰れた、出口を見つけたんだ、、、

・・・記述はそこまでで終わっている。
S谷さん達がその後どうなったのか、無事に脱出できたのかは書き残されていない。
この話は、実をいうと、旧犬鳴トンネルで肝試しをしていた若者達が拾った携帯電話のメモアプリに残されていた文章を書き起こしたものだ。
話の流れを追うと、このメモは、S谷さんがトンネルで1人きりになった時、正気を保つために、今までの経緯を記したものだと思われる。

とはいえ、このメモ自体、誰かのイタズラかもしれないし、S谷さん達4人が本当に存在するのかはわからない。
ただ、もしS谷さんたちが実在するとしたら、トンネル内にS谷さんの携帯電話が落ちていたのは、何を意味するのだろうか。

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