漫画家の怖い話

Mさんは漫画家。

売れっ子というわけではないが、マイナーな雑誌ながら連載を持っている。
サラリーマンとして働くかたわら漫画家になる夢を諦め切れずコンテストに応募を続け、28歳で念願の新人賞を受賞、それから3年でようやくつかんだ連載のチャンスだった。

週刊誌での連載はMさんが思っていた以上に過酷だった。
ネームの作成、下書き、ペン入れ、取材。
毎日、気が遠くなる量の作業が待っていて、休みはほぼない。
アシスタントを雇う経済的な余裕などないので、全部自分1人でやらねばならず、3日間の徹夜などざらにあった。

そんな、ある日のこと。
Mさんは、ペン入れ中に作業机に頭をぶつけそうになって、ハッとした。
2日間の徹夜で、眠気に抗えず、頭をこっくりこっくりさせてたらしい。
原稿にインクをこぼさなくてよかった。
そう思って、原稿を確認して違和感を覚えた。
そのページのペン入れが終わっていたのだ。
1コマ目の作業をしていたところで記憶は途切れているから、半分眠りながら作業を続けていたということか。
不思議だったけど、苦しい作業を無意識のうちに終えて、なんだか得したような気持ちがした。

それから2週間くらい経ったある日、再びMさんは奇妙な体験をする。
その日、Mさんは明日締切のネームを作っていて、アイディアにつまっていた。
作業机に座り何時間も頭をひねったが、納得のいく筋書きやセリフがまるで浮かばない。完全に煮詰まっていた。
イライラと吸い散らかしたタバコが灰皿で山となっている。
昨夜、来週分の原稿を仕上げたばかりで、かれこれ50時間は眠っていない。
コーヒーを何杯飲んでも、目が閉じようとしてくる。
Mさんは、ハッとした。
また、数分、意識が飛んでいたらしい。
締切まで時間がないのに、眠るわけにはいかない。
気合いを入れ原稿に向き直ってMさんは固まった。
ネームが完成していた。
詰まっていた筋書きやセリフも出来上がっいて、自分が考えたのか疑うほどの、想定以上の仕上がりだった。
担当編集に送ると、「殻を破りましたね」と評価された。

それからも、しばしば、Mさんが眠っている間に作業が進んでいることがあった。
驚いたのは、取材が不足している部分の補完までできていたことだ。
人間は脳みその90%近くを使っていないという話を聞いたことがあるが、無意識のうちに自分の能力のリミッターを外して制作をしているのだろうか、とMさんは思った。

無意識の間の作業の進みに頼ることがだんだんと多くなり、特にストーリーのアイディアは目覚めている時に進めることがほとんどなくなっていった。
目が覚めて、まるで1人の読者のように、ストーリー展開に驚いたりすることがしばしばあった。

そのおかげか、Mさんの連載は順調に回を重ねていき、3年を超えた。

ある日、担当編集の人から、そろそろ最終回に向けて作品をまとめていって欲しいと打診があった。
連載が終わるのは寂しくはあったけど、Mさんの中でも、もうそろそろいいかなという気持ちはあった。
この作品でやりたいことはやり切ったし、似たような展開とキャラクターを増やして、マンネリ化するのが怖かった。
人気に陰りが見えてきての打ち切りでなかっただけ幸いだった。

最終回のアイディアはかなり前から用意していたので、無意識の力を借りることもなく、Mさんは作品を仕上げ切った。
連載終了後、次回作の話も編集部からあがったがMさんは1ヶ月は休みたいと伝えた。
精も魂も尽き果てたというのが正直な気持ちだった。
連載中の3年で10歳は老けた気がする。
意識を失っている間の、自分の潜在能力にはずいぶん助けられたが、それだっていわば追い詰められて発現した異常な症状だ。
まとまったお金はできたので、温泉地などを巡ってリフレッシュしながら次回作の構想など練ろうと思った。

Mさんは、さっそく旅行の手配を進めた。
1週間かけて全国各地の温泉地を巡る行程だ。
キャリーケースを手に自宅マンションを出発し、特急電車に乗ると、すぐに抗いがたい眠気に襲われた。
蓄積した疲れがドッと出たような感じだった。

気がつくと、顔に固い感触があった。
目の焦点があうと、自宅の作業机だとわかった。
わけがわからなかった。
さっきまで電車に乗っていたはずなのに、どうして自宅にいるのか。
旅行にいく夢を見ていたわけではなかった。
その証拠に服装は出かけた時のものだし、キャリーケースもちゃんとある。
Mさん自身が自分の足で、眠って意識がない間に自宅に帰ってきたのだった。
自分は夢遊病なのだろうかとMさんは心配になった。
ふと、手を見て、Mさんは固まった。
小指の腹がインクで汚れている。
作業机の上に、書き上げられた原稿があるのを見てMさんは叫びそうになった。
目を通してみると、連載していた作品の続きだった。
いや、続きというより、最終回を迎えずにストーリーを展開した場合の新たな筋書きといった方が正確だった。
混乱した。
自分が書いたのは間違いないが、一体なぜ無意識のうちに、こんな原稿を仕上げたのか。
Mさんは自分の行動が信じられず、怖くなった。
潜在意識では、自分は連載の終了を望んでいなかったのだろうか。

Mさんは、その原稿を投げ出し、キャリーケースを持って自宅を飛び出した。
いけない、自分は疲れているんだ、とにかく休まないとダメだ。
何から逃げているのかもわからないまま、Mさんは駅までの道を走った。
眠ったら自宅に舞い戻っているのではないかと怖くて、道中、Mさんはいくら眠気を催しても寝なかった。
おかげで無事に宿泊先の温泉宿にはたどりつけた。
荷物を置いて、温泉に浸かると、気持ちも落ち着いてきた。
疲労のせいで心が病んでいるのかなと自分を冷静に分析した。
原稿を書かないとという強迫観念が夢遊病という形になってあらわれているのかもしれない。
旅行を終えたら一度、心療内科にいってみよう。
Mさんは、そう考えた。
温泉から上がると、地元の食材をふんだんに使った夕食を味わい部屋に戻った。
漫画のことは考えずに、ボーッとテレビを見ながらお酒を飲む。
こんな贅沢な時間の使い方は、どれくらいぶりだろう。
Mさんは心が洗われるような気持ちだった。
やはり自分は疲れている。
休息が必要なのだとMさんは改めて思った。

ハッと気がつくと、真っ暗な部屋。
口からよだれが垂れている。
また、眠ってしまったらしい。
手が何かに当たって、ガシャと何かが倒れた。
聞き慣れた音。
Gペンや鉛筆を入れている筆立が倒れた音だった。
電気をつける。
Mさんは絶句した。
またも自宅に戻ってきた。
しかも、旅館の浴衣を着たまま。
足は裸足で、泥だらけだった。
作業机には、つい今し方まで書いていたのであろう、連載作品の続きの下書きがあった。
書け、書け、書き続けろ。
頭の中で誰かが叫んでいる声が聞こえた気がした・・・。

・・・Mさんの担当編集がMさんのマンションを訪れたのは一ヶ月ほど経ってからのことだった。
旅行からは帰ってきているはずなのに、Mさんと連絡が一向につかないので不思議に思って様子を見にきたのだった。
いくらインターフォンを押しても反応がなく、Mさんの身に何かあったのではないかと心配になった編集者の人は、警察に通報した。
管理会社が用意したスペアキーで部屋に入った警察と担当編集者は声を失った。
部屋には、作業机に向かって一心不乱に原稿を描き続けるMさんの姿があった。
Mさんの身体はガリガリに痩せ細っていて、骨と皮しか残っていないようだった。
ずっとペンを走らせていたせいか、指の皮は擦り切れて、そこら中血だらけだった。
大きく見開いた目は血走り、いくら話しかけても原稿から目を離そうとしない。
部屋には、描き上げた原稿が山のように積まれていたという・・・。

その出版社ではMさんの話はタブーとなっているのだという。
その後、Mさんがどうなったのかは、明かされていない。

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