第100話「家路」
今すぐ家に帰らなくては・・・!
大事な取引先とのミーティング中にも関わらず僕の心は、そのことだけが占めていた。
ミーティングの内容がまるで頭に入ってこない。ただ、ひたすらに家に帰らなくてはという思いだけがどんどん強まっていく。
何が何でも帰らないと・・・。胸が張り裂けそうな切実な思いだった。理由はまるでわからない。これが、胸騒ぎというヤツなのだろうか。
「すみません!どうしても外せない用事を思い出しましたので、私はこれで!」
そう言って私は席を立った。取引先のお偉いさんも僕の同僚もただただ呆気に取られていた。始末書では済まないかもしれない。
しかし、どうしても帰らなければいけないのだ。
僕は走った。赤信号を無視してドライバーに怒鳴られても、肩がぶつかって相手の荷物が地面に転がっても、気にしてはいられなかった。
息が切れても走り続けた。
電車の時間がまだるっこしかった。急いでくれ、間に合わないかもしれないじゃないか。だけど、一体何に?そのことは、僕の心からすっぽり抜けていた。ただ急がなければいけないという気持ちだけがあった。
駅を抜けると、再び僕は走った。角をいくつも折れ、ようやくマンションにたどり着いた。エレベーターを待つのは億劫だったので、階段を駆け上がった。
電気メーターの裏側に隠してある合鍵を使って、部屋の中に駆け込んで・・・そこでハッと我に返った。
ここはどこだ?どうしてこんな場所に自分がいるのか、わけがわからなかった。まったく知らない部屋だった。ガランとして家具一つない空き部屋だ。ずいぶん長いこと使われていないのだろう、水が腐った臭いがした。
なぜ、ここに?だいたいどうして鍵の在り処を知っていたのか。何もかもわけがわからなかった。
それから何が起きるわけでもなく、僕は部屋に鍵をかけ、鍵を元の場所に戻して、駅に戻った。自分の上司には電話で、土下座せんばかりに謝罪した。
「とにかく先方に謝ってこい!」そう怒鳴られて電話を叩き切られた。
それもそうだ。社運をかけたプロジェクトが決まる大切なミーティングをすっぽかしたのだ。クビを切られてもおかしくない。
だけど、驚いたことに、先方の担当者は、失礼をしでかした僕に、すんなりと会ってくれた。
それどころか、「大変でしたね」と心配までしてくれた。
わけがわからずにいると、担当者の方が説明してくれた。
「実は2年前、弊社の社員が自殺をしまして・・・」
その話によれば、自殺した社員は、自殺を図った奥さんの後を追ったらしい。前から心を病んでいた奥さんを献身的に愛していた人だったという。ある日、胸騒ぎを感じて仕事中に自宅に戻ったが、すでに奥さんは手遅れの状態で、自分も後を追ったのだという。
そして、その人物が住んでいたマンションは、僕がさきほどまでいた場所だった。
「・・・実は、あなたが初めてではないんですよ」
取引先の社員さんの中にも、なぜか急に「家に帰らなくてはいけない」という思いに駆られて、あのマンションに行った人が何人もいるらしい。
僕は、その人達と同じように、亡くなった人の「早く帰らなくてはいけない」という想いを拾ってしまったということらしい・・・。