第88話「教え子」

暗い夜道を歩いて帰っていた時のこと。
街路灯の下に、いるはずのない人影を見つけ、私は思わず足を止めた。

Kは私の教え子だった。
田舎町から都心の中学校に引っ越してきて、右も左もわからないうちにイジメのターゲットにされてしまった。私は、担任教師として、イジメを把握しながら、何の手立ても打たなかった。
教職について2年目の新人だった私にとっては、Kをいじめているグループを敵に回したくない気持ちの方が勝ったのだ。
卑怯な振る舞いだったと思う。私を見つめるKの冷たい視線を今でも忘れられない。
Kは、ほどなくして不登校になり、自宅からも失踪した。
捜索は行われたが、いまだに行方はわかっていない。
どこかの山中で自殺を図ったのではないか、というのが家族以外の人間の大方の見方だった。

そのKが今、私の目と鼻の先に立っていた。
彼は死んでいるはずなのに・・・。
いや、実際に遺体が見つかったわけではないから生死は不明だ。
だが、あの姿は、行方不明になった5年前とまるで変わっていない。
しかも、真冬だというのに半袖の真っ白な学生服を着ている。
Kの幽霊・・・。そうだとしか思えなかった。

鳥肌がブワッと立つのがわかった。
私は踵を返して、来た道を引き返した。
呼吸が荒くなった。
Kは私を恨んで化けて出てきたのだ。そうに違いない。

角を曲がった。
すると、前方の街路灯の下に、Kの幽霊が現れた。
「ひっ」思わず声が出て腰が砕けそうになった。
「来るな!」私は、振り切るように逃げ出した。

逃げても逃げてもKの幽霊は追ってきた。
いったい私にどうしろというんだ・・・。
逃げ回るうちに方向がわからなくなり、気がつくと見たことがない公園に迷い込んでいた。

振り返ると、Kの幽霊はいなくなっていた。
ようやく逃げ切れたのだろうか・・・。
いや、Kは私を解放してくれるつもりはないらしい。
公園の入り口に黒い人影が立っているのが見えた。
人影は私の方に向かってゆっくりと近づいてきた。
「こっちに来るな!」教室で出したことのない大声を上げて叫んでいた。
人影はどんどんこっちにやってくる。
ついに私の神経も限界がやってきた。
腰が砕けて、歩けなくなった。
這うように逃げるしかできなかった。

「・・・先生?」
初めは何が起きたのかわからなかった。
黒い人影が公園の街灯の下にさしかかり、見知らぬ顔を浮かび上がらせた。
・・・いや、その顔にはKの面影があった。
「K?・・・お前、生きていたのか」
「やっぱり先生だ」
ニッコリと笑った顔に、かつてのいじめられっ子の時の暗さはなかった。

二人で喫茶店に入った。
Kは、失踪してからのことを語ってくれた。
Kは、何もかも嫌になり自殺を考えて家を飛び出たけれど、死ぬのが馬鹿らしくなって、住み込みで新聞配達をしながら暮らしていたらしい。
その話を屈託なく明るく語る様子を見ていると、まるで別人のようだった。
数年ですっかり大人びていたし、筋肉がついてたくましくなっていた。
「・・・すまなかった!」
考える間もなく、私の口から謝罪の言葉が溢れていた。
Kへのイジメを見て見ぬ振りをしてしまったことを私は頭を下げて詫びた。
Kの幽霊を目撃したことで、私の中にどれだけの罪悪感があったのか、ようやく気がつくことができた。もしかしたら、その罪悪感こそが、Kの幽霊という幻を生み出したのかもしれない。
「頭を上げてください。気にしていませんから。逆にああいう経験があったからこそ強くなれたと今では思ってますよ・・・なんて言うと思いましたか?」
途端にKの目つきが急に鋭くなった。
「先生。僕は、この日をずっと待ってたんですよ」
なんだか急に気分が悪くなってきた。視界がグルグルと回り始め、私はテーブルに突っ伏した。

気がつくと人で溢れた場所に寝かされていた。
どこかの駅の構内だった。
目の前を大勢の人の足が行き交うのがぼんやりと見えた。
ふいにKの顔が現れた。
「ゲームをしましょう、先生。さっきのお店で先生の飲み物に毒を盛りました。先生の命は、もって、あと5分です」
Kは滔々と語った。私への恨みを糧に生きてきたこと。稼いだお金を全てこの計画に注ぎ込んだこと。
「見て見ぬ振りフリをされる辛さ、よく味わってください・・・誰か助けてくれるといいですね」
そう言ってKは去っていった。あっという間に、Kの後ろ姿が人混みに紛れて見えなくなった。
・・・助けて。そう頭に浮かんでも口から言葉は出なかった。
胸が焼けるように痛い。呼吸が苦しい。肺に空気が入っていかない。
前を通る人たちは、私に一瞥を投げかけはするものの、汚いものでも見るかのように目を逸らして歩き去るだけだった。
・・・私は、なすすべもなく人波が行き交うのを見つめることしかできなかった。

-ショートホラー