第65話「身代わり雛」

2018/03/29

 

3月3日。桃の節句。
通っている音大の学生食堂に雛人形が飾られていた。
思わず足を止めて見てしまった。
雛人形に、いい思い出はない。
魚の小骨のように心の奥深くに苦い記憶が突き刺さっていた。

小学生の私は、まさにピアノ漬けだった。
朝起きて朝食の前にピアノの練習。
学校から帰ると、ランドセルを放って、すぐにピアノ。
夕ご飯を忘れることもあった。
週に3日はピアノ教室でマンツーマンのレッスン。
初めは母に言われて嫌々始めたピアノだったが、気づけば、私自身にとってなくてはならないものになっていた。
友達と遊ぶ時間なんてなかったけど、不満はなかった。

その日も私は学校から帰ってピアノの練習をしていた。
発表会が1ヶ月後にせまっていたからいつにも増して練習に熱が入っていた。
ガン!
一瞬、何が起きたのかわからなかった。目の前にあった鍵盤の白黒が、いきなり真っ黒に変わった。
ピアノの蓋がいきおいよく閉まって私の右手を潰したのだと気づくのに数秒かかった。
痛みとショックから悲鳴を上げた。たちまち母がかけつけてくれ、氷で冷やしてくれた。
幸い軽い打撲ですんだが、練習は2、3日休まざるをえなかった。
事故自体は仕方ないにせよ、しっかり固定されていたピアノの蓋がなぜいきなり閉じたのか、不可解だった。
1週間もすると痛みもまったくなくなり普段通り練習できるようになった。事故が発表会直前に起きなくてよかったと心から思った。
ところがおかしな出来事は、それで終わらなかった。
発表会まで2週間を切った日の図工の時間。ふざけていた男子の一人が、手に握っていた彫刻刀をすっぽぬかせた。宙を舞ってストンと落ちたのは、私の右手の人差し指と中指の間だった。1㎝ずれてたら私の指は大怪我をしていただろう。
それから、わずか3日後には、学校帰りに転倒して、乗用車がクラクションを鳴らしながら倒れている私の右手をかすめていった。
短い間に右手に怪我を負うような出来事がここまで立て続けに起きるものだろうか。
しかも、転倒する直前、後ろから誰かに押されたような気がしていた・・・。
発表会直前でナーバスになっていた私は、母に泣きながら相談した。
その翌日、家に帰ると雛人形がテーブルに置いてあった。
母が知り合いに紹介してもらい、購入してきたものだという。
「身代わり雛」と呼ばれるものだと母は説明した。
持ち主に降りかかる不幸や災いや穢れを雛人形が身代わりに引き受けてくれるのだという。
母に言われたとおり、私は雛人形の右手をハサミで切り落とした。
こうすることで、私の穢れが雛人形に移るという。
そして、母と一緒に人形を川に流しに行った。
・・・どうか私の不幸を持っていってください。
流れていく雛人形にいつまでも手を合わせた。

「身代わり雛」を行ってから、おかしな出来事は起きなくなった。
無事、発表会も終えることができた。 ただ、あの奇妙な出来事はなんだったのだろうかというモヤモヤ感はいつまでも残った。
発表会前でナーバスになっていただけなのかもしれないが、それだけではない理解不可能な力が働いていたような気がする。
私の家では、その年以来、雛人形を飾るのをやめた。
私が思い出さないようにという母の配慮だったのだと思う。

「どうかした?」
声をかけられハッと我に返った。
私は、しばらく、食堂の雛人形を呆然と見つめていたようだ。
「ううん、なんでもない・・・」
私は、えっちゃんにそう言って二人で空いているテーブルについた。
えっちゃんとは、地元が近かったことから、この音大に入学してすぐに仲良くなった。
今では親友だ。
器楽科でピアノを弾く日々の私と、システム環境学科で舞台システムの勉強をしているえっちゃんとでは接点はあまりないのだが、お昼は必ず一緒に食べるようにしている。
同じ学科でないことが逆によかったのかもしれない。
器楽科の同級生たちは、どこまでいってもライバルだ。
仲良さそうにしていても、埋められない溝がある。
えっちゃんは、学科も違うから気安い。
それに、えっちゃんは、昔ピアノに打ち込んでいたから、専門的な話や悩みも聞いてもらえれる。
かけがえのない存在だった。
「やっぱり変」
えっちゃんは、上の空で食事をする私に言った。
「ごめん・・・実はね・・・」
私は、身代わり雛の話をえっちゃんにした。人に話すのはこれが初めてだった。
ところが、話の途中から、えっちゃんの表情が変わってきた。
よく見ると、えっちゃんの細い身体は小刻みに震えている。
「どうしたの?」
「・・・それって、いつの話?」
えっちゃんは私にそう尋ねてきた。
「小学校5年生の時」
私は、そう答えた。
すると、えっちゃんは、おもむろに左手で右手を包み込むようにした。
・・・目の前の光景が信じられなかった。
えっちゃんの右手がポロリと外れた。
えっちゃんの右手は、義手だったのだ。
考えてみれば、えっちゃんは左手ばかり使って、右手を見せないようにしていた気がする。
なのに、私は今まで、まったくえっちゃんの右手が義手だとは気がつかなかった。
「・・・私ね、小学校5年生の時に河原で雛人形拾ったの」
まさか、まさか・・・。心臓のトクントクンという鼓動が早まるのを感じた。
「右手が欠けてて可哀想って思って、私、その人形を家に持って帰って大事にしてたんだ・・・」
嫌だ。それ以上は聞きたくない・・・。
「・・・私が事故にあったのはピアノの発表会当日だった。私の演奏中に照明が上から落ちてきて、金属部分がちょうど私の右手首を切り落としたの。劇場の人たちは、点検したばっかりで、どうしてそんな事故が起きたのかわからないって・・・」
もうやめて・・・。お願い・・・。
「もちろん、私はピアノを諦めなくちゃいけなかった・・・」
私は耳を塞いだ。だけど、えっちゃんの声は、私の脳に直接送られてくるみたいに響いて聞こえた。
「・・・今度、私の雛人形持ってくるね」
えっちゃんの目は不気味なくらい爛々と輝いていた。

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