第30話「インスピレーション」

2016/08/31

「ミケランジェロは人間の魂が肉体の内に宿るように、石の中に彫刻作品のあるべき姿があらかじめ存在すると考えていたんだ」
顧問の飯田先生が、誰かに、そう言っているのが聞こえた。
飯田先生は、35歳で独身。中性的な顔立ちをしたイケメンで雰囲気が柔らかいなので、女子生徒から絶大な人気を得ている。
だから、飯田先生目当てで美術部に入る子も多い。
実は、私も、その一人。

高校2年の夏。私は、今、展覧会に出す作品のモチーフが決まらなくて困っていた。
今日も鉛筆を鼻の下に乗っけて、イメージを練り直しては壊すの繰り返しだった。
そもそも絵の心得があって入部したわけではないので、作品制作はいつも四苦八苦だった。
1年以上やっているうちに、さすがに基本的な技術は身についたけど、絵のモチーフの選び方といったセンスの部分はいまだに磨かれていない。
飯田先生に褒めてもらえる日はいつになるやら。

結局、その日もスケッチブックは真っ白なまま、帰宅することになった。
帰り道、何かインスピレーションが湧くかと思って、公園に寄ってみた。
ベンチに座って、風景をぼんやり眺めてみる。
5分、10分経っても、頭に何も浮かんでこない。
やっぱり私、才能ないんだなぁ・・・。
溜息が漏れた。
その時だった。突然、頭の中で、稲光が落ちたような衝撃があった。
パッと明かりがつくように鮮明なイメージが急に頭に浮かんできた。
鉛筆がスラスラと動き出した。
あっという間に、美術教室を描いたデッサンができあがった。
頬が上気しているのがわかった。
デッサンは、目を見張るほどの出来栄えだった。
自分の中の殻を一枚破った気持ちがした。

家に帰っても絵を描きたくて仕方なかった。
絵を描いていて、こんなハイな状態になったのは初めてだった。
何枚も何枚もスケッチブックにデッサンを描いていく。
鉛筆が止まらない。
最後に飯田先生の顔をモデルにしたデッサンが描き終わった頃には、日付が変わっていた。

「先生、これ見てください」私は、昨日描いた飯田先生のデッサンを本人に見せるため、美術準備室を訪れていた。
飯田先生は、しばらくジッとデッサンを見つめてから口を開いた。
「これ、秋田さんが描いたの?」
「もちろんです」
「なんか、一皮剥けたって感じだね」
「先生もそう思います?」
「よかったら、もらってもいいかな」
「ぜひぜひ」
「展覧会の絵は進んでる?」
「そっちはまだ、ちょっと」
「途中でもいいから今度見せてよ。個人的に持ってきてもらってもいいから」
美術教室を後にした私は、こぼれる笑みを抑えきれなかった。
憧れだった飯田先生から褒めてもらった上に、展覧会の絵を個人的に見てもらえるなんて。
一夜にしてグッと距離が縮まった気がする。
これを機に、美大を目指すのもありかも。私の心は燃えていた。

けど、どうしたことか、展覧会のためのモチーフを考えようとすると手が止まってしまった。
まるでインスピレーションが湧いてこない。
昨日は、あんなに絶好調だったのに不思議でならなかった。

自宅に帰ってみると、再びインスピレーションが戻ってきた。
買い込んでおいたスケッチブックをどんどん消費していく。けど、どうも昨日とは様子が違った。
えんえんと渦巻模様を描いてみたり、モチーフがわからない幾何学模様を描いてみたり、イメージが混乱してきている。
まるで心を病んでいる人が描いた絵みたいだ。
それに、身体は疲れてきているのに、鉛筆を持つ手は止まらない。
・・・本当に、この絵を描いているのは私なの?そんな疑問が湧いてきた。

次の日の放課後。少し早目に美術教室を訪れると、まだ誰もきていなかった。
私は一昨日描いた写実的なデッサンと昨日描いた乱れたデッサンを見比べてみた。
どうにも腑に落ちなかった。どちらもつき動かされて描いたが、たった1日でこうもタッチや絵柄が変わるものだろうか。

「それ、あなたが描いたの?」背後からいきなり声をかけられてビクッとした。
美術教師の松下先生が立っていた。
松下先生は一昨日私が描いたデッサンを手に取った。
「なんだか、原さんのタッチに似ているわね」
「原さん?」
「知らない?原みどりさん。美術部の先輩だった人よ。私なんて及びじゃないくらいの才能の持ち主だったわ」
「そんなにうまかったなら、美大に進学されたんですか?」
松下先生の表情が曇った。
「原さんね、2年生の夏に亡くなったのよ。自殺したの」
私は言葉を失った。
「芸術家肌の子だったから、悩みを抱え込んじゃったのかもね」
すると、松下先生は思い出したように、美術教室の壁に飾ってある絵を指さした。
「ほら、あの絵のモデルが原さんよ」
その絵なら知っていた。飯田先生が描いた作品で、有名な展覧会で賞をもらった肖像画だった。
「飯田先生はね、亡くなった原さんに捧げるために、あの絵を描いたのよ」
あの絵にそんな裏事情があったとは知らなかった。
改めて、絵の中の原さんの顔を見てみた。神経質そうに見えるが、私よりよっぽど美人だった。
絵から、飯田先生の原さんへの愛情が感じられた。私は原さんがちょっとだけ羨ましかった。

だけど、私が描いたデッサンが亡くなった原さんのタッチに似ているのはなんでなんだろう。
原さんの幽霊が私に手を貸してくれているとか?
そうなら、展覧会のために素敵な絵を描かせてください。私は絵の中の原さんに祈ってみた。

その日の夜は、昨日より、さらに筆が荒れた。
描くというよりは〝描き殴る″といった感じだった。
自分でも何を描いているのかわからなかった。
ただ、絵に込められた感情は素人の私にも読み取れた。
怒り、悲しみ、後悔。
自殺した原さんの顔がよぎった。
これは私のインスピレーションなんかじゃない。
やっぱり原さんが、私の身体を通して、絵を描こうとしているんだ。
私は、急に怖くなってきた。
「・・・もうやめて!」私はたまらず叫んでいた。
鉛筆が、急に止まった。

翌日。私は、飯田先生に相談するため美術準備室を訪れた。
原さんをモデルに絵を描いたくらいなのだから飯田先生なら原さんの事情に詳しいだろうと思ったのだ。
私は、昨日までに描いたデッサンを全て見せ、これまでの事情を飯田先生に打ち明けた。
私の話を終えると、飯田先生は苦笑した。
「・・・つまり、原さんが、君の身体に乗り移っているってことかな。彼女は、化けて出るような子じゃないよ。少し疲れてるんじゃないか?」
けんもほろろだった。
「・・・けど」と私が言ったその時だった。
意志とは無関係に、急に私の手が鉛筆を握って、スケッチブックに何かを描き始めた。
「秋田さん。どうしたの!?」飯田先生も驚いている。
「私じゃない。止まらないんです!」
私の手は、完全に操られていた。
力強い線がやがて形をなしていく。
男の人が、女の子を押し倒す絵・・・。
獣のような男の人の顔の絵。
恥辱に苦しむ女の子の顔の絵。
首を吊る女の子の絵。
次々と絵は描かれていく。
獣のような顔をした男は、飯田先生だった。
パキンと鉛筆が折れたところで、私の手は解放された。
私だって馬鹿じゃない。今描かれた一連の絵が何を意味するかは一目瞭然だった。
「・・・先生。何をしたんですか?原さんに」
「何を言っているんだい。君、少しおかしいんじゃないか?」
飯田先生は明らかに動揺していた。
「この絵は僕が全部預かるよ。僕は、忙しいから、もうこの辺にしてくれ」
飯田先生は切り上げて誤魔化そうとしている。
その時、美術準備室に突風が吹きすさび、私が描いた50枚以上のデッサンを一斉に巻き上げた。
風で舞い上がったデッサンが、飯田先生の身体にまとわりつくように踊り狂った。
「・・・なんだ!なんだ、これ」
飯田先生はデッサンに視界を奪われ、よろよろと後退していった。
向かう先には開いた窓があった。
「先生!危ない」と呼びかけた時には手遅れだった。
飯田先生は、バランスを崩して窓から転落した・・・。

飯田先生は即死だった。私が描いたデッサンは、たった一枚を除いて全てが風に奪われてしまった。
初めに描いた美術教室のデッサンだけが私の手元に残っていた。
改めて、そのデッサンを見つめるうちに、私はあることに気がついた。
原さんが私に託した最後の願い・・・。
私が描いた美術教室のデッサンには、一つだけ描かれていないものがあった。
壁にかけられた原さんの肖像画だ。
自分を死に追いやった男が描いた肖像画。
それを、この世から消して欲しい。
そういうメッセージなのだと私は理解した。

私は、ひとけがない時を見計らって、美術教室の原さんの肖像画を壁から外し、焼却炉にくべた。
原さんの肖像画が炎に飲み込まれていくのを見つめながら、この火によって原さんの無念が浄化されますようにと私は祈るばかりだった。

 

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