いらない山 #012
2017/10/25
その山を訪れたのは、私がフリーライターになって7年目のことだった。
某県某町にある駅を降りて、バスで揺られること1時間半。人家の数がだんだんと減りはじめた頃、「登山道入口」というバス停に到着した。
バスを降りた瞬間、蝉時雨が耳に痛かった。
樹木の日よけがあるとはいえ日差しはかなり強かった。
目を転じると、木製の看板があった。
看板の板は腐っていたが、「いらない山」という手書きの文字が辛うじて判読できた。
やはりここに違いない。私は確信を深めた。
「いらない山」という奇妙な話がネットで出回り始めたのは、ここ数年のことだ。
いわく、「いらない山」には洞穴があり、奥へ進むと大きな縦穴がある。その穴に捨てたものは決して戻ってこないと伝えられていて、ある男は考えた。
決して戻ってこないということは、穴に落ちたものは決して発見されないということではないか。
男は不仲だった母親を、その穴に落とし、死体なき完全殺人を遂行したという怪談だ。
いわば姥捨山の変形の怪談で、物語自体には、それほど目新しさはなかった。
ただ、始めは怪談話の好事家達の間で出回っていた噂話に過ぎなかったものが、今ではちょっとしたブームになっている。
ブームになった理由は明快だ。
どうも本当にその山は存在するらしい・・・。そういった証言が相次いでネットに出回ったからだ。
私も怪談ライターのはしくれとして、ぜひ、その信憑性を検証してみたかった。
そして数ヶ月間の調査の結果、某県にある山こそ「いらない山」であるという証言を得ることができたのだった。
私は、「いらない山」の領域に足を踏み出した。
気温が、ガクンと下がったような気がした。背中をひんやりとした風がなでていく。
少し歩くと、すぐに鬱蒼とした藪に突入した。
ほぼ獣道といってよく、生い茂る草木の中から道を探り探り、歩かなければならなかった。
1時間ほど歩いただろうか。
私は、開けた草地に到着した。
岩の一つに腰を降ろして、ペットボトルのお茶で喉を潤した。
今までの道には、洞窟の類は見当たらなかったし、怪現象らしきものも起こっていない。
さわやかな山だった。
無駄骨だったのかもしれないと少し心配になってきた。
あと少し登っても何も発見できなければ帰ろうと決め、腰を上げた。
その時だった。
近くの藪を掻き分ける音がして、人影が二つ現れた。
5歳くらいの子供と、その母親らしき女性だった。
二人を見た瞬間、私は違和感を覚えた。
服装があまりにも軽装だったのだ。
子供はTシャツに半ズボンだし、母親の方はスカートを履き、カーディガンを羽織っている。靴はパンプスだ。
私は、二人に会釈をしてみた。
すると、母親の方が薄い笑みを浮かべ会釈を返してきた。
顔つきが暗く、笑みもどこか薄気味悪かった。
子供の方は、無表情で地面を見て俯いている。
母親が「いらない山」の噂を聞きつけ、子供を捨てに山を登ってきた。そんな想像が頭をよぎり、私は身震いをした。
「こんにちは」
私は、何気なく声をかけた。
二人がぴたりと足を止め、私を見つめてくる。
何の感情も読み取れない虚ろな表情だった。
「この先には、何があるんですか?」
尋ねてみると、「・・・さあ、地元の者ではないので」と母親の方がボソボソと答えた。
「大丈夫ですか?二人ともずいぶん軽装のようですが」
今度は返事がなく、二人は私の前を通り過ぎて、緩やかな登り道を遠ざかっていった。
私は、しばらく二人の後ろ姿が見えなくなるのを眺めていた。
二人の後を追ってみようかと思うのだが、なぜか、どうしても足が出ない。
本能的な恐怖とでも言おうか、私は背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。
しばらくしてから、二人が登っていった道を私も続いて登ってみたが、突如、山の雰囲気がガラッと変わった。
さっきまではさわやかな空気の中、鳥や虫の鳴き声が聞こえたりしていたのだが、今は虫の音一つ聞こえない。
樹木が傘のように頭上に覆いかぶさり、日差しも差し込まず、じめじめとしてきた。
重たい空気が全身にのしかかってくるようだった。
次第に足が思うように動かなくなり、数歩歩いては止まりを繰り返すようになった。
まるで、山の上の方から淀んだ空気が流れ込んでいて、それが私の足に纏わり付いているかのようだった。
・・・私は下山を決めた。
全ては私の思い込みが生み出す錯覚かもしれないが、山が放つ圧倒的な負の力に私の気持ちが折れてしまった。
踵を返そうとした瞬間、私は、上から降りてくる小さな人影に気が付いた。
身体中をぞっと戦慄が駆け抜けた。
さきほど見かけた親子の男の子が、たった1人で山を下ってきていた。
男の子は、宙の一点を見つめ、ずんずん降りてくる。
私のことなどまるで目に入っていないようで、目の前を通り過ぎていく。
私は、カラカラの喉から絞るように声を出した。
「・・・きみ、お母さんは?」
私が尋ねると、男の子は振り返って、にちゃりと笑った・・・。